「生得悪質、嫉妬深き御人也(生まれつき性悪で、嫉妬深い人だ)」……『玉輿記』
「無数の悪質、嫉妬深き婦人也(悪い点を挙げれば数限りなく、嫉妬深い女性だ)」……『柳営婦人伝』
「其心、偏僻邪佞にして嫉妬の害甚し(心は邪悪にねじくれ曲り、嫉妬がひどく迷惑させられる)」……『武徳編年集成』
「凶悍にてもの妬み深くましまし(ヒステリックで嫉妬深くいらっしゃる)」……『三河後風土記』
これ、誰のことだと思いますか?
何を隠そう、徳川家康(とくがわ いえやす)の正室・築山殿(つきやまどの)に他なりません。NHK大河ドラマ「どうする家康」では有村架純が演じているヒロイン・瀬名のことです。
やれ「悪質」だの「偏僻邪佞(へんぺきじゃねい)」だの挙げ句「凶悍(きょうかん。凶暴で荒々しい)」だの……いったい何をしでかしたらこんな悪口ばかり言われてしまうのでしょうか。
後に織田信長(おだ のぶなが)の命令で処刑されてしまう彼女。圧力に屈して妻を殺さざるを得なかった家康のやましさからか、後世ボロッカスに評されてしまうのでした。
「決して泣く泣く殺したのではなく、殺さざるを得ないほどの悪女だったのだ……」
その結果が冒頭の評価(捏造?)につながったようですが、果たして彼女はなぜ処刑されてしまったのでしょうか。
今回は『徳川実紀(東照宮御実紀)』より築山殿について、家康(元信⇒元康)との結婚と処刑の場面を紹介。大河ドラマとの違いを比較してみましょう。
元信が元服した夜に結婚
竹千代君御とし十五にて今川治部大輔義元がおはしまし御首服を加へたまふ。義元加冠をつかうまつる。関口刑部少輔親永(一本義広に作る。)理髪し奉る。義元一字をまいらせ。松平次郎三郎元信とあらため給ふ。時に弘治二年正月十五日なり。その夜親永が女をもて北方に定めたまふ。後に築山殿と聞えしは此御事なり。……
※『東照宮御実紀』巻二
時は弘治2年(1556年)1月15日、竹千代は15歳で元服。主君・今川義元(いまがわ よしもと)に成人男性の証しである冠を被せてもらいました。
稚児髪を剃って月代(さかやき)に整える役目は関口親永(せきぐち ちかなが。別名義広。大河ドラマでは関口氏純)が務め、義元は自分の名前から「元」の一字を与え、松平次郎三郎元信と改名します。
その日の夜、親永の娘を正室(北の方)に迎えました。後に言う築山殿とは彼女のことです。
大河ドラマでは初めて瀬名に挨拶した時点で元信と名乗っていたので、元服後に出会った設定となっていますね。
また元服と同日に結婚しているため、大河ドラマにおける今川氏真(うじざね)との(瀬名をめぐる)槍試合もフィクションです。念のため。
それにしても義元が手ずから冠を被せて名前の一文字を与え、一門である関口氏純の娘を嫁がせるとは、元信の厚遇ぶりがよく解ります。
劇中「そなたは我が子も同然」「余と氏真を支えてくれ」と言っていましたが、史実の義元もきっとそんな期待をかけていたのでしょう。
しかし桶狭間で義元は討たれてしまい、その家督を継いだ氏真を裏切ります。元康が武田信玄(たけだ しんげん)と共謀のうえ、駿河国より追放したのは後世知られる通りです。
ここで武田と組んでいたことが、やがて起こる悲劇の遠因となったのかも知れません。
スポンサーリンク
武田との内通容疑で処刑
……築山殿と申けるはいまだ駿河におはしける時より。年頃定まらせたまふ北方なりしが。かの勝頼が詐謀にやかヽりたまひけん。よからぬことありて八月二十九日小藪村といふ所にてうしなはれ給ひぬ。……
※『東照宮御実紀』巻三
……信康君もこれに連座せられて。九月十五日二俣の城にて御腹めさる。是皆織田右府の仰によるところとぞ聞えし。……
時は天正7年(1579年)。築山殿と嫡男・松平信康(のぶやす)が、武田勝頼(かつより。信玄遺児)と共謀していたとして信長(織田右府)より処刑を命じられました。
「武田の詐謀に取り込まれてしまったばかりに……」
何でも信康に嫁いだ信長の娘・徳姫(とくひめ。五徳)が、あることないこと告げ口した結果とのこと。
本件につき事情を知っているとして、織田家より訊問を受けた家臣の酒井忠次(さかい ただつぐ)も十分に弁護できなかったため、両名の処刑が決定します。
「おのれ、左衛門尉(忠次)さえしっかり弁護してくれたら……!」
果たして8月29日に築山殿を処刑、ついで9月15日に信康も切腹となりました。この事について、愛する妻と嫡男を守れなかった家康は、後々まで忠次を恨んだそうです。
スポンサーリンク
終わりに
以上が築山殿事件のごく概略ですが、彼女の死を惜しむ者が後を追って命を絶ちました。劇中ではあまり目立たなかった侍女の“たね(演:豊嶋花)”です。
女子
仁木助左衛門某が妻となり、助左衛門死するの後三河国賀茂郡の内にをいて采地をたまひ、天正七年八月二十九日築山御方生害のときこれに殉ひたてまつるとて、入水して死す。
【意訳】伊奈忠基の娘(実名は不詳)。仁木助左衛門(にき すけざゑもん)に嫁ぎ、夫の死後に三河国賀茂郡(愛知県豊田市)の所領を賜る。天正7年(1579年)8月29日に築山殿が処刑されると、これに殉(したが)うため入水した。
※『寛政重脩諸家譜 第五輯』巻第九百三十一「藤原氏 支流 伊奈」より
“たね(≒伊奈忠基女子)”の事情や胸中は当人に聞くよりありませんが、少なくとも築山殿が彼女の殉死に値するだけの人徳を備えていた一証拠にはなりそうです。
果たしてNHK大河ドラマ「どうする家康」では、瀬名(※ちなみに史料上で彼女を「瀬名」と呼んだ事例はなく、瀬名は父・氏純の実家苗字)がどのような人生をたどるのか、見届けていきたいと思います。
※参考文献:
- 本郷和人『徳川家康という人』河出新書、2022年10月
- 『徳川實紀 第壹編』国立国会図書館デジタルコレクション
スポンサーリンク
コメント