どんな難問も一刀両断
石川数正 いしかわ・かずまさ
[松重豊 まつしげゆたか]酒井忠次同様の古参の家臣で、家康が最も信頼する常識人。
カミソリのような切れ味鋭い頭脳の持ち主で、遠慮なく正論を進言する。外交役も務め、戦国武将と渡り合う度胸の持ち主。
※NHK大河ドラマ「どうする家康」公式サイトより
「いや、石川数正もれっきとした戦国武将なのですが……」この紹介文を読んでツッコミを入れたくなったのは、きっと筆者だけではないはずです。
全体的に本作の主人公周りって、そこはかとなく「現代人が戦国時代に紛れ込んじゃった感」がするのは何故でしょうか。
まぁそれはさておき。徳川家康(演:松本潤。松平元康)のブレーンとして活躍した石川数正(演:松重豊)。劇中では文武の文に秀でる印象ながら、実際には武勲も多く立てた智勇兼備の名将です。
今回は『寛政重脩諸家譜』などより、その生涯をたどっていきたいと思います。
外交も武勇も一流?家康の懐刀として大活躍
石川数正は天文2年(1533年)、松平家臣の石川康正(いしかわ やすまさ)と松平重吉女(まつだいら しげよしのむすめ)の間に誕生しました。
通称は助四郎(すけしろう)・与七郎(よしちろう)などと呼ばれ、天文18年(1549年)に竹千代(後の元康、家康)が今川の人質として駿河へ赴いた際は、筆頭家臣として付き従います。
永禄4年(1561年)に元康が水野信元(演:寺島進)と石瀬で戦った際には先鋒を務め、敵将の高木清秀(たかぎ きよひで。主水)と一騎討を演じています。
やがて織田信長(演:岡田准一)が家臣の瀧川一益(たきがわ かずます)を派遣して和議を申し入れ、数正の仲立ちで交渉開始。
数正と高力清長(こうりき きよなが)は織田方の一益と林正成(はやし まさなり)と協議の結果、両国の境界が定まりました。
織田方に奪われた西三河の諸城が返還され、のちに元康が信長と会談した際も随行し、松平と織田の同盟が締結されるなど、外交手腕を奮っています。
やがて叔父の石川家成(いえなり)が遠州掛川城を預かった際はその城代を務め、西三河の旗頭役(≒家臣たちのまとめ役)を任されました。
それからは元亀元年(1570年)の姉川合戦で浅井長政(演:大貫勇輔)・朝倉義景(あさくら よしかげ)と対決、元亀3年(1572年)の三方ヶ原合戦では武田信玄(演:阿部寛)を迎え撃ちます。
更には天正3年(1575年)の長篠合戦で武田勝頼(演:眞栄田郷敦)を撃退。やがて天正10年(1582年)に武田が滅亡した後はその遺領をめぐって北条氏直(ほうじょう うじなお)と激闘を繰り広げました。
天正11年(1583年)には家康が豊臣太閤こと羽柴秀吉(演:ムロツヨシ)へ初花の茶壷を贈る使者も務め、翌天正12年(1584年)に秀吉と戦った小牧長久手の合戦では本多忠勝(演:山田裕貴)と共に小牧山の本陣を守ります。
徳川方の手強さに、家康との和議を考えた秀吉は羽柴雄利(はしば かつとし。下総守)と冨田知信(とみた とものぶ。左近将監)、津田隼人正(つだ はやとのかみ)を使者に派遣しました。
「さて、いかがしたものか」
家康が諸将を集めて諮問すると、数正が進言します。
「今や秀吉は天下の半分を治め、諸大名を多く従えております。一方我らはその半分にも満たず、北に上杉景勝(うえすぎ かげかつ)、東に北條氏直など三方を囲まれてはとても太刀打ちできません。ここは早く和議を結ぶべきでしょう」
これを聞いた家康は機嫌を損ねてしまいました。
「何だと、我ら兵こそ少ないが、どうして敵の大軍など恐れようか!」
……議論は紛糾し、なかなか返答できなかったため、秀吉はしばしば使者を派遣して説得に努めます。
まぁそこまで言うなら……と家康も妥協して、和議の人質として次男の於義丸(おぎまる、後の結城秀康。母はお万の方、当時11歳)を大坂へ差し出すのでした。
「伯耆(数正)よ、大坂へついて行ってやってくれ。かつて駿府へ赴いたわしを守ってくれたようにな」
「ははあ……」
こうして数正は大坂へ同行し、後に息子の石川康長(やすなが)・石川康勝(やすかつ)を大坂に残します。
しかし天正13年(1585年)、岡崎へ戻った数正は何を思ったか家康の元を去り、秀吉に仕えました。
その動機については(スパイ、怨恨など)諸説あるものの、当時秀吉が諸大名の優秀な人材をヘッドハンティングしていたため、単純に引き抜かれたものと見られます。
さて、徳川家中でも指折りのブレーンであった数正を迎えて秀吉は大喜び。やがて従五位下の位階と出雲守の官職を授けられました。
天正18年(1590年)に北条氏直が滅亡すると、信州松本に8万石を領する大名に。そして文禄2年(1593年)に61歳で世を去ったのでした。
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終わりに・数正の息子たち
●数正
※『寛政重脩諸家譜』巻第百二十 清和源氏(義時流)石川
助四郎 伯耆守 出雲守 従五位下 母は某氏。
天文十八年東照宮駿河国におもむかせ給ふのとき供奉の人を選ばる。数正其随一なり。永禄四年水野信元と尾張国石瀬にをいて合戦の時、さきがけして敵将高木主水清秀と鎗をあはす。このとし織田右府より、瀧川一益を数正がもとにつかはして、和議のことを申入らるゝにより、すなはちこのことを言上し、右府と御和議ありてしかるべきむね申せしかば、御許容ありて、御返答に及ばれける。右府大によろこび則一益林正成をして、数正高力與右衛門清長等と鳴海に相会さしめ、尾張三河の境をさだめらる。このとき西三河の諸城を右府よりかへしまいらす。のち右府に御対面あらむと尾張国清州に入らせたまふのときも、従ひたてまつる。其のち叔父日向守家成に掛川の城をたまふのとき、仰によりてこれに代り、西三河の旗頭役となる。元亀元年姉川の役にしたがひたてまつり、その余三方原及び長篠の戦に軍忠を励し、また駿遠両国に御出陣ありて、所々の城をせめたまふのときも先陣に列す。天正十年武田家没落ののち、甲斐国に御出陣ありて、北條氏直が兵と御戦陣のとき従ひたてまつる。十一年五月豊臣太閤に初花の茶壷を贈りたまふのとき、数正於使をつとむ。十二年四月長久手合戦のとき、仰によりて酒井忠次本多忠勝とともに小牧山の御陣営を守り、六月前田甚七郎長種が前田の城をせめ、城兵降をこふて引しりぞく。のち太閤大坂にかへり、羽柴下総守雄利及び冨田左近将監知信津田隼人正某を使として和議をこふ。東照宮諸臣を集めてこのことを議せらる。数正すゝみ出ていはく、秀吉天下の半を領して諸将おほく其下風にたつ。今御麾下の士彼に比すれば其なかばにもたらず、かつ北に上杉あり、東に北條あり、三方の敵を受ばたとひ一旦利を得るとも永く敵しがたし。其望にまかせ早く和議を許容したまひて、万歳の謀をなしたまふべしとなり。東照宮御気色よからず、我寡兵なりといへども何ぞ大兵を畏れむやとて、其使者に御答なかりしかば、其のちしばゝゞ使者をもつて和をこふにより、遂に御許容ありて越前中納言秀康卿大坂に至らせたまふ。数正したがひたてまつり、男康長等を彼地にとゞめて仕へしむ。十三年十一月数正かつてより岡崎の留守たるのところ、ゆへありて岡崎を出奔し、大坂にいたりて太閤につかふ。のち従五位下に叙し、出雲守にあらたむ。十八年七月小田原落城の後、信濃国松本の城主となり八万石を領す。文禄二年卒す。的翁宗善筒三寺と號す。室は内藤右京進某が女。
以上、石川数正の生涯を駆け足でたどってきました。『徳川実紀』で紹介されている人質交換交渉などは割愛されていましたね。
秀吉の元へ参じてからは、それなりに厚遇はされたものの特に活躍もなく、何と言うか「徳川の情報さえ抜いてしまえばもう用済み」とばかりそっけない印象です。
ところで、数正の息子たちは数正の遺領をそれぞれ継承しましたが、慶長18年(1613年)の大久保長安(おおくぼ ちょうあん/ながやす)事件に連座して3人とも改易されてしまいました。
●康長
※『寛政重脩諸家譜』巻第百二十 清和源氏(義時流)石川
玄蕃頭 従五位下 母は某氏。
天正十二年秀康卿大坂におもむかせたまふのとき、彼地に属従してつかへたてまつる。のち父が遺領を継、豊臣太閤につかへ、慶長五年上杉景勝御征伐のとき、東照宮に従ひたてまつり、下野国小山にいたるのところ、石田三成反逆のきこえありて、上方御追討あり。このとき台徳院にしたがひたてまつり、中山道より供奉す。十年四月将軍宣下御拝賀のとき従ひたてまつり、十八年十月十九日大久保石見長安がことに坐して所領を没収せられ、毛利伊勢守高政にめし預らる。
【意訳】石川康長 玄蕃頭(げんばのかみ)/従五位下/母は不明(正室じゃないの?)
天正12年(1584年)に秀康が大坂へ人質に出された時、随行する。父の死後に家督を継いで豊臣秀吉に仕えた。
慶長5年(1600年)の関ヶ原合戦では台徳院こと徳川秀忠(ひでただ。家康の三男)に従って中山道を攻め上がる。慶長10年(1605年)に秀忠が第2代江戸将軍となった折、拝賀式に随行する。
慶長18年(1613年)10月19日、大久保長安事件に連座して改易され、毛利高政(もうり たかまさ。伊勢守)に身柄を預けられた。
康勝
※『寛政重脩諸家譜』巻第百二十 清和源氏(義時流)石川
勝千代 肥後守
秀康卿豊臣太閤のもとにいたらせたまふのとき供奉し、のち父が遺領のうち一万五千石をわかちうけ、太閤及び秀頼に仕ふ。慶長十八年十月二十五日兄がことにより領地を没収せらる。
【意訳】石川康勝 幼名は勝千代、肥後守。兄と共に大坂へ随行し、父の遺領から1万5千石を与えられる。兄とは異なり秀吉秀頼(ひでより。秀吉嫡男)に仕えた。慶長18年(1613年)10月25日、兄と共に改易された。
某
※『寛政重脩諸家譜』巻第百二十 清和源氏(義時流)石川
半三郎 紀伊守
父が遺領のうち五千石を分ち與へられ、慶長八年二月二十五日東照宮将軍宣下御拝賀のとき、供奉に列す。十八年十月二十五日兄とともに采地を収めらる。
【意訳】石川ナニガシ 通称は半三郎、紀伊守。父の死後、5,000石を分け与えられ、慶長8年(1603年)に家康が将軍となった拝賀式に随行。慶長18年(1613年)10月25日に康勝ともども改易される。
……秀吉の生前は罰することが出来なかった数正への怒りを、ここぞとばかり息子たちに晴らしているようにも見えますね。
果たしてNHK大河ドラマ「どうする家康」では、数正の出奔そして息子たちがどのように描かれるのか、今から楽しみにしています。
※参考文献:
- 『寛政重脩諸家譜 第一輯』国立国会図書館デジタルコレクション
- 高柳光壽ら『戦国人名辞典』吉川弘文館、1963年2月
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