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【戦国武将マニュアル】鎧や兜ってどう着るの?武田家の名将たちが徹底レクチャー「武田勇士揃(歌川貞秀)」がコチラ

コラム
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戦国武将って、カッコいいですよね!

カッコよさの理由は武勇や精神などソフト面もありますが、やっぱり強そうな鎧や兜など外見を装うハード面も欠かせません。

大和男児(やまとおのこ)と生まれなば、一度はしたし武者姿(七五調)

でも、鎧や兜ってどう着るのでしょうか?じっさい着なくても、気になりますよね。

そこで今回は、戦国最強と謳われた武田家の皆さんが鎧兜の着け方を徹底レクチャー!何をどの順番で身に着けるのか、分かりやすく紹介してくれます。

歌川貞秀の浮世絵「武田勇士揃」をテキストに見ていきましょう。

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一、下着(したぎ)……小山田備中守

これが死に装束と心得て、清潔なものを。歌川貞秀「武田勇士揃」より、小山田備中守

それではさっそく始めましょう。まずは下着。要するに肌着です。特に変わったこともありませんね。なるべく着慣れたものを選びましょう。

襟元の丸いのは、合戦の激しい動きで乱れぬよう、鋲(リベット)でかしめた(固定した)のでしょうか。

ここまでするのは、一度鎧を着る=戦場に出ると、滅多なことでは脱げないためです。

【講師紹介】小山田昌成(おやまだ まさゆき)

生年不詳~天正10年(1582年)3月2日没

武田信玄・武田勝頼の二代に仕えた猛将。長篠の合戦(天正3・1572年5月21日)では徳川方の武将・松平伊忠を返り討ちにするなど武勲を立てる。

織田信忠の侵攻を受けた際、仁科盛信(信玄五男)の副将として高遠城で討死した。

二、下袴(したばかま)……板垣駿河守

「おい源太、そなたが前におっては、それがしが見えぬではないか!」歌川貞秀「武田勇士揃」より、板垣駿河守(奥)

続いて袴を穿きます。現代の袴とおおむね同じですが、裾をしぼれるよう指貫(さしぬき)紐がついています。

地味な違いでも、これがあるとないでは利便性が大きく異なるのです。

【講師紹介】板垣信方(いたがき のぶかた)

延徳元年(1489年)生?~天文17年(1548年)2月14日没

武田信虎の代から仕え、若き信玄の補佐役を務めた。和歌の心得もある文武両道の良将。

上田原の合戦で信玄が村上義清に敗れた際、討死してしまう。

三、脚絆(きゃはん)……佐奈田源太左エ門

足ごしらえはしっかりと。歌川貞秀「武田勇士揃」より、真田源太左エ門

袴の裾をしぼったら、上から脚絆を巻いて固定します。上から固い脛当を着けるため、こすれて足を痛めないようしっかり結びましょう。

【講師紹介】真田信綱(さなだ のぶつな)

天文6年(1537年)生~天正3年(1575年)5月21日没

父・真田幸綱の代から信玄に仕え、勝頼にも忠義を尽くす。弟に謀将として名高い真田昌幸がいる。
長篠の合戦において弟の真田昌輝と共に討死した。

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四、草鞋(わらんじ)……原能登守

予備の草鞋も用意しておきたいところ。歌川貞秀「武田勇士揃」より、原能登守

要するに草鞋(わらじ)です。普段履き慣れていないと足指の感触に戸惑うかも知れませんね。

いきなり新しいものを用意すると激しい動きに耐えられないため、日頃から軽く履き慣らしておくのがおすすめです。

【講師紹介】原友胤(はら ともたね)

生没年不詳

元は下総国千葉郡原郷を領する豪族。永正14年(1517年)に故郷を追われ、甲斐の武田信虎に仕官。嫡男の原虎胤(美濃守)と共に武功を重ねた。

五、脛当(すねあて)……飯富兵部

脛が締まると、戦意も高まる。歌川貞秀「武田勇士揃」より、飯富兵部

先ほど巻いた脚絆の上から着けます。少しずつ鎧を着ている感が出てきて、テンションが上がりますね。

脛当は自分の足に合ったものをあつらえるのが理想ですが、御貸具足などをあてがわれた場合は、多めに布を巻くなど脛が痛くないよう調整してもいいでしょう。

【講師紹介】飯富虎昌(おぶ とらまさ)

永正元年(1504年)生~永禄8年(1565年)10月15日没

信虎時代から武田家の宿老として仕え、信玄からも信頼厚く嫡男・武田義信の傳役(教育係)を務めた。

武田軍のトレードマーク「赤備」を率いて武功を立てたが、義信の謀叛容疑に連座して自害する。

六、佩盾(はいだて)……山本勘助晴幸

着けると判る、この安心感。歌川貞秀「武田勇士揃」より、山本勘助晴幸

腰に佩盾を巻きつけて、大腿部から膝上までを保護するものです。これがあるとないでは、下半身の安定感・安心感が大きく違います。

ただしあまり厚ぼったいと動きを阻害するので、材質や着け心地など、事前に試して相性を確かめましょう。

【講師紹介】山本勘助(やまもと かんすけ)

明応2年(1493年)生?~永禄4年(1561年)9月10日没

武田ファンなら知らない人はいない?伝説の名軍師。以前は架空の人物とされていたが、最近実在が確認されて一安心。

数々の知略を用いて活躍したが、第四次川中島の合戦で策が敗れて討死。

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七、決拾(ゆがけ)……穴山伊豆守

布製か、革製か好みが分かれるところ。歌川貞秀「武田勇士揃」より、穴山伊豆守

元は弓掛などとも書いたように、かつては弓の弦を引くとき弓手(ゆんで。右手)の指が痛くないよう保護する道具でした。

やがて時代が下ると両手を保護する手袋となりました。これも防御力と戦いやすさを両立できるものを選ぶか、日ごろから着け慣らしておきたいものです。

【講師紹介】穴山信君(あなやま のぶただ)

天文10年(1541年)生~天正10年(1582年)6月2日没

信玄の甥であり、娘婿でもある親密な関係。出家名の穴山梅雪でも知られる。

勝頼の代になると粗略な扱いに怨みを抱き、織田信長に内通。武田家の滅亡後は徳川家康に従うも、本能寺の変のドサクサで殺された。

八、臂単(こて)……高坂弾正忠

袖を丁寧にまとめ込む。横着すると違和感が残るため注意。歌川貞秀「武田勇士揃」より、高坂弾正忠

手首から肩までかけて保護する防具で、かつては弓を引く時に直垂などの右袖が弦にからまないようまとめる役目がありました。

単なる布だけではなく、ところどころに防御力を高める金具や革などを貼りつけたものもあります。着けたら、両腕の動かしやすさを確かめましょう。

【講師紹介】高坂昌信(こうさか まさのぶ)こと春日虎綱(かすが とらつな)

大永7年(1527年)生~天正6年(1578年)5月7日没

元は百姓だったが、信玄に見出されて近侍した。上杉謙信への備えを任されていたことから、厚い信頼がうかがえる。

信玄死後はしばしば勝頼を諫め、教訓のため軍学書『甲陽軍鑑』を記したと言われる。

九、饅頭輪(まんじゅうわ)……甘利備前守

確かに、何となくお饅頭っぽいかも。歌川貞秀「武田勇士揃」より、甘利備前守

首回りから肩・背中そして脇にかけて保護する防具です。名前の由来は要調査ながら、前でとめた(襟元をとじた)時の姿が饅頭っぽく見えるからでしょうか。あるいは身体を餡子に見立て、それを包み込んだ様子を饅頭に喩えているのかも知れません。

臂単の隙間をふさぐ役割があるため、堅牢さと動きやすさの二点を重視すべきです。

【講師紹介】甘利虎泰(あまり とらやす)

明応7年(1498年)生?~天文17年(1548年)2月14日没

先ほどの板垣信方と共に信虎時代から仕え、武田家の宿老として武功を重ねた。こちらも上田原の合戦で討死している。

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十、甲(よろい)……諸角豊後守

分かりやすいよう勢いよく着ているが、ゆっくりで大丈夫。歌川貞秀「武田勇士揃」より、諸角豊後守

お待たせしました。いよいよ鎧の登場です。左腕を差し込み、胴体をぐるりと包み込んでから各部を結びとめていきましょう。

鎧は古式ゆかしく小札(こざね)を糸で縅(おど)したものか、鉄板を多用した当世風か。あなたはどっちがお好みですか?

【講師紹介】室住虎光(もろずみ とらみつ)

生年不詳~永禄4年(1561年)9月10日没

信虎時代から侍大将として仕え、武功を重ねて飯富虎昌らと共に賞賛された。

第四次川中島の合戦で討死。首級を上杉方に奪われるも、与力の成瀬正一と石黒五郎兵衛が奪還する。

十一、表帯(うわおび)……馬場美濃守

気合いを入れて絞め込もう。歌川貞秀「武田勇士揃」より、馬場美濃守

鎧を着たら、腰に表帯をガッチリ締めておきましょう。基本的に合戦の途中で脱ぐことはない、というか脱げたら大変なので、結び目を作ったら帯の残りは切り落としてしまいます。

この時点で脇差や太刀を装着、下半身は完成です。

【講師紹介】馬場信春(ばば のぶはる。信房)

永承12年(1515年)生~天正3年(1575年)5月21日没

信虎時代から信玄・勝頼と三代に仕える。信玄の初陣に従い、敵将・平賀源心を打ち取ったという。
生涯で70回以上の合戦に参加したが、かすり傷一つ負わず人々から「不死身の鬼美濃」などと評される。しかし長篠の合戦で壮絶な最期を遂げた。

十二、袖(そで)……横田備中守

慣れないと、ちょっと難しいかも。面倒な方は最初から鎧に結びつけておく手もあり。歌川貞秀「武田勇士揃」より、横田備中守

次に肩から上腕にかけて防護する袖を結びつけましょう。これがあると、鎧のグレード感がアップしますよね。

カッコよさはもちろん大事だけど、取り回しの確認も忘れずに。また自分の肩につけにくい方は、誰かにお願いするといいでしょう。

【講師紹介】横田高松(よこた たかとし)

長享元年(1487年)生?~天文19年(1550年)10月1日没

信虎の代から仕え、各地を転戦して武功を重ねる。弓の名手だったという。

砥石城の合戦で信玄が村上義清に再び敗れた際、殿軍を務めて討死(砥石崩れ)。その死は信玄を嘆かせた。

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十三、鉢巻(はちまき)……山県三郎兵衛

よっしゃ、やるぞ!歌川貞秀「武田勇士揃」より、山県三郎兵衛

鎧を着たら、次は兜をかぶる前に鉢巻を巻いて頭を保護しましょう(直接かぶると頭が痛いので注意)。

現代でも受験勉強の前など、必勝の気合いを入れた方も多いのではないでしょうか。

【講師紹介】山県昌景(やまがた まさかげ)

永正12年(1515年)生~天正3年(1575年)5月21日没

先ほど登場した飯富虎昌の弟、もしくは甥。しばしば武功を重ね、虎昌の死後に赤備を引き継ぎ、武田家臣団の筆頭格として八面六臂の活躍を見せた。

長篠の合戦では他の宿老らと共に撤退を進言するも勝頼に却下され、あえなく討死する。

十四、面頬(めんぼお)……小幡織部正

これであなたも鬼武者に変身!歌川貞秀「武田勇士揃」より、小幡織部正

さっそく兜をかぶりたいところですが、その前に顔面を保護する面頬を装着しましょう。いかめしいお面みたいですね。

これがあると鎧武者感が更に高まり、さすがに戦意も高揚します。また、喉元を保護する喉輪(のどわ)も一緒にどうぞ。

【講師紹介】小幡虎盛(おばた とらもり)

延徳3年(1491年)生~永禄4年(1561年)6月2日没

信虎の代から武田家に仕え、その武勇から「鬼虎」の異名をとった。生涯で36度の合戦に臨み、全身に41か所の傷を負ったという。

春日虎綱の副将として上杉謙信に備えたが、第四次川中島を前に病死した。

十五、冑(かぶと)……今福善九郎

兜の前立など、細かなパーツの点検も忘れずに。歌川貞秀「武田勇士揃」より、今福善九郎

さぁ、いよいよ冑をかぶりましょう。ちなみに甲冑(かっちゅう)という言葉は、甲(鎧)と冑(兜)のセットを意味します。

緒の結んで固定しますが、最後まで気を抜かずにいきましょう。

【講師紹介】今福友清(いまふく ともきよ)

永承10年(1513年)生~天正9年(1581年)5月15日没

信玄の代から武田家へ仕え、信玄が駿河国を征服すると久能城の城主を務めた。

出家して長閑斎(ちょうかんさい)と号したが、勝頼の寵臣・長坂釣閑斎(ちょうかんさい。長坂光堅)とよく間違われる。

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十六、六具(りくぐ)……武田左馬介、武田逍遥軒

これで準備万端。どっからでもかかって参れ!歌川貞秀「武田勇士揃」より、武田左馬介・武田逍遥軒

兜をかぶったら、最後に六具を揃えましょう。

ちなみに六具とは旗指物(または母衣)・扇・鞭・箙(えびら。矢ケース)・小旗(敵味方の識別票)・采配(または軍配)などを言います(諸説あり)。

もちろん状況に応じて要らないものは省いて大丈夫。晴れて堂々たる甲冑武者の完成です!

【講師紹介】武田信繁(たけだ のぶしげ)

大永5年(1525年)生~永禄4年(1561年)9月10日没

信玄の実弟。幼少期から兄を尊敬し、盛り立て続けた弟の鑑。智勇兼備の良将として活躍したが、第四次川中島の合戦で討死してしまう。

【講師紹介】武田信廉(たけだ のぶかど)

天文元年(1532年)生~天正10年(1582年)3月24日没

同じく信玄の実弟。絵の才能があり、両親の肖像はじめいくつもの作品を残している。信玄と顔がよく似ていたため、影武者も務めたという。

武田家滅亡後も再起を図るが、脱出に失敗して殺害される。

終わりに

……お疲れ様でした。鎧を着るのって、大変だと思いましたか?でも大丈夫です。

実は江戸時代の武士たちも、鎧の着方を知らない者が少なくなかったと言います。

今回の「武田勇士揃」もそんな武士たちに向けたビジュアル教材の一種でした。

そもそも戦国時代の武士たちだって、最初は手取り足取り教えてもらって覚えたはず。誰でも最初は一年生なのです。

もし皆さんが鎧兜を着る機会に恵まれたら、今回のレクチャーを思い出してみると、より一層楽しめることでしょう。

※参考文献:

  • 柴辻俊六ら編『武田氏家臣団人名辞典』東京堂出版、2015年5月
  • 丸島和洋『戦国大名武田氏の家臣団 信玄・勝頼を支えた家臣たち』教育評論社、2016年6月

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