New! 脩子内親王とはどんな女性?その生涯は

17歳の若さで早逝!花山天皇の寵愛を受けた藤原忯子(井上咲楽)とはどんな女性だった?【光る君へ】

平安時代
スポンサーリンク

藤原忯子(ふじわらのよしこ)

花山天皇の女御。寵愛を受けるが早逝。天皇の出家のきっかけとなる。

※NHK_PR(参考)より

花山天皇(第65代)より深く寵愛を受け、その皇子を身籠るも17歳という若さで世を去ってしまった藤原忯子(ふじわらの しし/よしこ)。

令和6年(2024年)NHK大河ドラマ「光る君へ」では井上咲楽が演じる予定となっていますが、彼女はどのような女性だったのでしょうか。

そこで今回はNHK大河ドラマ「光る君へ」の予習を兼ねて、藤原忯子の生涯をたどってみたいと思います。

スポンサーリンク

慈愛にあふれ、つつしみ深い女性だった?

藤原忯子は平安時代中期の安和2年(969年)、藤原為光の次女として誕生しました。母親は正室である藤原敦敏の娘です。

忯子と書いて「よしこ」または「しし」と読みますが、忯という漢字を調べてみると「慈しみ・愛する」「敬い・謹む」「たのみにする」などの意味があると言います。

きっと愛情深く折り目正しい女性に成長するよう、両親も願っていたことでしょう。

美しく成長した藤原忯子は永観2年(984年)、花山天皇に見初められて女御(にょうご。天皇陛下の妻で、皇后・中宮に次ぐ地位)となります。

内裏に迎えられた藤原忯子は、後宮七殿五舎の最高格にあたる弘徽殿(こきでん)に住んだため、弘徽殿の女御と呼ばれるようになりました。よほど大切にされていたのでしょうね。

やがて花山天皇の皇子を身籠った藤原忯子。当時の貴族たちにとって、娘を皇室に嫁がせて皇子を産んでもらうのは出世の足がかりですから、父・為光は天にも昇る心地だったことと思います。

しかしその幸せは長く続かず、寛和元年(985年)7月18日に急死。お腹の皇子と共に世を去ってしまったのでした。享年17歳。

花山天皇は彼女の死を深く嘆き悲しみ、やがて寛和2年(986年)6月23日の出家に至ったと『栄花物語』や『大鏡』は伝えています。

……寛和二年丙戌六月廿三日の夜、あさましく候ひし事は、人にも知られさせ給はて、みそかに花山寺におはしまして、御出家入道せさせ給へりしこそ、御年十九……

※『大鏡』六十五代 花山院天皇

スポンサーリンク

藤原忯子・略年表

安和2年(969年) 誕生(1歳)

永観2年(984年) 入内し、花山天皇の女御となる(16歳)

時期不明(同年か) 花山天皇の皇子を身籠る(16~17歳)

寛和元年(985年)7月18日 急死(17歳)

藤原忯子・基本データ

父:藤原為光

母:藤原敦敏女

兄弟:二男二女(異腹兄弟姉妹は除く)

長兄:藤原誠信

次兄:藤原斉信

長姉:藤原義懐室

次女:藤原忯子(本人)

身分:女御(花山天皇)

終わりに

藤原忯子の死を悲しみ、出家せんとする花山天皇(左)。月岡芳年筆

以上、花山天皇の女御として寵愛を受けながら、若くして世を去った藤原忯子の生涯をたどってきました。
藤原忯子は父・藤原為光が建立した法住寺(京都市東山区)に葬られ、兄・藤原斉信らと共に眠っています。

井上咲楽さんコメント

花山天皇の深い寵愛を受けた忯子。その子を身籠ったまま、17歳という若さで世を去ります。
熾烈な権力争いの時代、二人の愛は思わぬところで利用されてしまいますが、その濃密な関係、僅かな時間を慈しむ気持ち、そして若き天皇を残して逝く気持ちはどんなものだったのでしょうか。
忯子について詳しい資料は残っていないものの、二人の時間がいかに儚く大切なものだったのか、大切に想って演じるよう心掛けました。

※NHK_PR(参考)より

令和6年(2024年)から始まるNHK大河ドラマ「光る君へ」では、儚くも視聴者に鮮烈な印象を与える演技に期待しています。

※参考:

スポンサーリンク

コメント

タイトルとURLをコピーしました