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大河ドラマ「青天を衝け」渋沢栄一の商法会所設立に尽力した萩原四郎兵衛のエピソード

大河ドラマ
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「これからは、お前の道を行きなさい」

ヨーロッパ視察から帰国した渋沢栄一(しぶさわ えいいち)は静岡・駿府城で謹慎していた旧主・徳川慶喜(とくがわ よしのぶ)からそう告げられます。

栄枯盛衰は世の習い、権勢を失った者から人が去っていくのは理の当然……なれど、栄一は違いました。

「主君が窮地にある時こそ、臣下の忠義は試されるもの」

幕臣時代の渋沢栄一。旧恩を忘れず徳川慶喜に忠義を尽くした

静岡藩の財政を再建して旧恩に報いるため、栄一は明治2年(1869年)1月に金融機関と物産販売を兼ねた商法会所(しょうほうかいしょ)を設立。

その他、ヨーロッパで学んできた株式会社制度や経済システムを導入したのですが、この商法会所のヒントになった先覚者が静岡にいたと言います。

その名は萩原四郎兵衛(はぎわら しろべゑ)。彼との出逢いが栄一にとって大きな転機の一つになったのでした。

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駿府の豪商が渋沢栄一と出逢うまで

萩原四郎兵衛は江戸時代後期の文化12年(1815年)、駿府(現:静岡県静岡市)の茶問屋・萩原久左衛門(きゅうざゑもん)の長男として誕生、19歳となった天保4年(1833年)に本家へ養子入りして七代目萩原四郎兵衛を襲名しました。

こちらも茶問屋でしたが、本業のかたわらで名主や町頭(ちょうがしら。丁頭)、そして郡中惣代(ぐんちゅうそうだい)など地域のリーダーとしても活躍。

東海道の三島から府中(駿府)にかけて宿場の取締御用(監督役)を務めるなど、街道の流通と商業を押さえ、豪商としての地位を確立します。

儲けたカネは、地域のために(イメージ)

かなりの剛腕だった一方で、強引なやり方に反感を買うことも少なくなかったようですが、嘉永7年(1854年)の安政東海地震では自腹を切って施粥(せがゆ。炊き出し)を行うなど、地元を守る意識は高かったようです。

やがて慶応4年(1868年)1月に戊辰戦争が始まり、新政府軍が東海道を進撃してくるとこれを歓迎、いち早く協力の意思を示しました。

その一方で、新政府軍に降伏した徳川慶喜が静岡藩主として駿府へやって来ると「徳川家にゆかり深き駿府の地に、先の将軍様をお迎えすることは光栄の至り」などとこれまた歓迎。

こういう態度が、人によっては内股膏薬(※)に思われたものの、四郎兵衛としてみれば駿府の人々をトラブルから守るためであり、ここにも地域の代表としての意識が垣間見えます。

(※)うちまたこうやく。内股に塗った膏薬が歩く度にあっちへこっちへついてしまうことから、節操のない態度を批判する慣用句。

「こんな頭でみんなが助かるなら、誰にでもナンボでも下げましょう」

さて、東海道の諸藩が新政府軍に恭順し、世が改まりつつあった慶応4年(1868年)3月、四郎兵衛ら駿府の豪商が集まって「御産物御会所目論見書(ごさんぶつごかいしょもくろみしょ)」を作成しました。

これは駿府の豪商らが合同で駿河国の特産物(茶、椎茸、塗物、和紙など)を独占的に仕入れて横浜港を経由して海外へ輸出、利潤を集中させることで効果的な経済活動・地域振興を可能とするものです。

ただし、これも強引な手法が「利益を独り占めする気か!」などと反感を招いてしまいます。

地域のため、みんなのためにやろうとしても、なかなか理解が得られない……そんな明治2年(1869年)1月、四郎兵衛は慶喜に仕えていた渋沢栄一と出逢うのでした。

終わりに

栄一と出逢った四郎兵衛は25年という親子にも等しい年齢差を越えて意気投合、互いの知恵やノウハウを結集してその月のうちに商法会所の設立を実現。

四郎兵衛は筆まめで栄一との交流を詳細に記しており、栄一が静岡藩に仕えていた時代の記録は、その多くが四郎兵衛によって伝えられたと言います。

四郎兵衛との出逢いを通して、より大きく成長した栄一

永年の商売で体得してきた経営感覚を栄一に伝え、日本実業界の父として飛躍させた四郎兵衛は、日本実業界の「父の父」と言えるかも知れません。

大河ドラマ「青天を衝け」では田中要次さんの好演する萩原四郎兵衛の活躍が、これからも楽しみですね!

※参考文献:

  • 萩原元次郎『萩原鶴夫傳 : 幕末維新の駿府を語る』萩原鶴夫伝記刊行会、1968年
  • 宮本又郎『日本の企業家1 渋沢栄一 日本近代の扉を開いた財界リーダー』PHP研究所、2016年11月

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