倫子・彰子の女房 赤染衛門(あかぞめえもん)
凰稀 かなめ(おうき・かなめ)女流歌人。源倫子の女房であり、さらに一条天皇の中宮となる娘の藤原彰子にも仕えた。
※NHK大河ドラマ「光る君へ」公式サイト(人物紹介)より
姫たちに学問を指南するうちに、文学好きなまひろ(紫式部)とも交流することになる。
藤原道長の正室・源倫子(りんし)そして娘の藤原彰子(しょうし)に仕えた赤染衛門(あかぞめゑもん)。
後に紫式部(まひろ)とも交流する彼女は、果たしてどのような生涯をたどったのでしょうか。
今回は赤染衛門の生涯をたどり、大河ドラマ「光る君へ」の参考にしてもらえたらと思います。
80歳以上の長寿だった?絵に描いたような良妻賢母(リア充)
赤染衛門は実名不詳。天暦10年(956年)ごろ、赤染時用(ときもち)の娘として誕生しました。
仮に天暦10年(956年)生まれとするならば、紫式部(まひろ。本作では天禄元年(970年)生まれ説を採用)より14歳年長ということになります。
赤染時用の娘として生まれた彼女。しかし彼女の母親は、前夫である平兼盛(たいらの かねもり)の子を身籠った状態で時用と再婚。そのまま彼女を出産したのです。
これ納得のいかない兼盛は、娘の親権をめぐって訴訟を起こしました。その判決についてはハッキリしていないものの、後世「赤染衛門」と称されていることから、少なくとも世の人々は彼女が赤染時用の娘と認識していたものと思われます。
成長した彼女は源雅信(みなもとの まさのぶ)の元へ出仕し、赤染衛門の女房名で呼ばれました。赤染衛門とは、父親の苗字+父親の官職である「衛門(ゑもん)」を合わせたものでしょう。
やがて貞元年間(976~978年)に文章博士(もんじょうはかせ。官僚養成機関である大学寮の漢学講師)の大江匡衡(おおえ まさひら)と結婚。大江挙周(たかちか)や江侍従(ごうのじじゅう。女流歌人)らをさずかったと言います。
二人はとても仲良し夫婦だったそうで、人々は彼女のことを匡衡衛門ともあだ名しました。ただ藤原教通(のりみち。道長の五男)との間に娘を生んだとも言われており、何があったか少し気になるところです。
紫式部をはじめ和泉式部(いずみしきぶ)や清少納言(せい しょうなごん)、伊勢大輔(いせのたいふ)らと親交をもち、匡衡が尾張国へ赴任すれば共に下向して夫を支え、息子である挙周の和泉守任官に尽力するなど絵に描いたような良妻賢母(リア充)でした。
寛弘9年(1012年)8月6日に夫と死に別れた後も女流歌人として活躍し、長元8年(1035年)には藤原頼通(よりみち。道長長男)の主催する歌合や長久2年(1041年)に開催された弘徽殿女御・藤原生子(せいし。教通の長女)の歌合に出場。その歌才を発揮します。
長久2年(1041年)に曾孫の誕生をお祝いする和歌を詠んだ後、その最期について詳しいことは分かっていません。
赤染衛門・略年表
- 天暦10年(956年)ごろ 誕生。実父?の平兼盛が親権をめぐって訴訟を起こす。
- 貞元年間(976~978年) 大江匡衡と結婚する。
- 寛和元年(985年) 夫が何者か(藤原保輔?)に襲撃され、左手指を切り落とされる。
- 長保3年(1001年) 夫が尾張守に。現地赴任へ同行する。
- 寛弘9年(1012年) 夫に先立たれる。
- 寛仁3年(1019年) 息子の大江挙周が和泉守に任官する。
- 長元8年(1035年) 藤原頼通の歌合に出場する。
- 長久2年(1041年) 藤原生子の歌合に出場する。
- 同年 曾孫の誕生を祝う和歌を詠む。その後消息不明。
紫式部からの評価は…『紫式部日記』より
丹波の守の北の方をば、宮、殿などのわたりには、匡衡衛門とぞいひはべる。ことにやむごとなきほどならねど、まことにゆゑゆゑしく、歌詠みとて、よろづのことにつけて詠みちらさねど、聞こえたるかぎりは、はかなきをりふしのことも、それこそ恥づかしき口つきにはべれ。ややもせば、腰はなれぬばかり折れかかりたる歌を詠み出で、えもいはぬよしばみごとしても、われかしこに思ひたる人、にくくもいとほしくもおぼえはべるわざなり。
※『紫式部日記』より
【意訳】匡衡(当時、丹波守)の北の方(正室。赤染衛門)は、中宮彰子や道長殿たちは匡衡衛門と呼ばれているとか……まぁ、夫婦円満で結構ですこと。
別に名門という訳ではないけど品がよくて、つまらない和歌を詠み散らかすようなこともありません。うかがった限りでは、和歌の出来も悪くないとは思います。
周囲を見れば彼女ほどの技量もないくせに、腰が離れそうな(和歌の上句と下句がちぐはぐな)和歌を詠んでいる人たちたくさん。まことに哀れでなりません。
……この随分と上から目線の批評は、紫式部によるもの。もちろん面と向かってではなく、日記に書きつけたとは言え、ちょっとイラっとしてしまいそうですね。
確か二人は仲が良かったはずですが、こういう内心を包み隠して「うふふ……」「ほほほ……」と微笑を浮かべていたのでしょうか。
本編でもそんなやりとりがあるのでしょうか……見てみたいような、見たくないような……。
女流歌人として活躍・素敵な和歌作品たち
赤染衛門と言えば、後世に女房三十六歌仙・中古三十六歌仙として数えられた女流歌人。せっかくなので、その作品を一部紹介しましょう。
やすらはで 寝なましものを さ夜ふけて かたぶくまでの 月を見しかな
※『後拾遺和歌集』
【意訳】あなたが来ないと知っていたらさっさと寝ていたのに、なまじ期待させるものだから、月が傾くまでずっと待っていたんですからね!
これは自身ではなく、姉妹のために代作してあげたものです。藤原道隆(道長長兄)への恨み節でした。
代はらむと 祈る命は をしからで さてもわかれむ ことぞ悲しき
※『詞花和歌集』
【意訳】あなたの代わりに死んであげたい=命は惜しくないけれど、それでも結局あなたと離れ離れになってしまうのは悲しくてなりません。
これは息子の挙周が重病を患った時、住吉神社へ奉納した作品。子を思う母を哀れと思し召したか、やがて挙周は回復したそうです。
今宵こそ よにある人は ゆかしけれ いづこもかくや 月をみるらん
※『後拾遺和歌集』
今夜の名月を、世の人々も私のように見上げているのでしょうか。そんなこと、いつもは気にならないけど、気になってしまうほどの名月なのです。
「世にある人」は世間の人々とも、特定の誰か(想い人?)とも解釈できます。あなたはどっちだと思いますか?
終わりに
以上、赤染衛門についてその生涯などをたどってきました。果たして「光る君へ」ではどのような赤染衛門が演じられるのか、楽しみですね。
大江匡衡とのおしどり夫婦ぶりや、息子への愛情なども観たいところ……尺の都合があるのですべては演じられないでしょうが、期待しています。
※参考文献:
- 日本古典文学大辞典編集委員会『日本古典文学大辞典第1巻』岩波書店、1983年10月
- 石井文夫ら訳・校註『新編日本古典文学全集26 和泉式部日記 紫式部日記 更級日記 讃岐典侍日記』小学館、1994年9月
- 上田正昭ら編『コンサイス日本人名辞典 第5版』、株式会社三省堂、2009年1月
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