兼家の異母弟
※NHK大河ドラマ「光る君へ」人物紹介より
藤原 公季(ふじわらのきんすえ)
米村 拓彰(よねむら・ひろあき)
藤原兼家の異母弟。閑院流(かんいんりゅう)の祖。
NHK大河ドラマ「光る君へ」皆さんも楽しんでいますか?
「藤原ばっかりで分からない」とお嘆きの方も少なくないでしょうが、徐々に個性が見えてきたのではないでしょうか。
さて、藤原道長にとって、義理の叔父に当たる藤原公季。米村拓彰が演じるこの人物は果たしてどんな生涯を送ったのでしょうか。
今回はそんな藤原公季について紹介。大河ドラマ「光る君へ」第7回放送「おかしきことこそ」以降の予習にどうぞ!
村上天皇に可愛がられ、若くして公卿に
藤原公季は天暦10年(956年)、藤原北家の右大臣・藤原師輔(もろすけ)の十一男として誕生しました(十二男説も)。
母親の康子内親王(こうし/やすこ)は醍醐天皇の皇女(十四女)。朱雀天皇や村上天皇は叔父に当たり、公季も女系ながら皇室の血を引くことになります。
幼名は宮雄君(みやおのきみ)。生後間もなく母を喪ったため、姉の藤原安子(あんし/やすこ。村上天皇の中宮)に引き取られて育ちました。
村上天皇も宮雄君をたいそう可愛がり、他の皇子たちとほとんど同じに育てたそうです。
あまりの寵愛ぶりに、安子の皇子である守平親王(のち円融天皇)は嫉妬したとも言われています。
やがて康保4年(967年)に12歳で元服、正五位に叙されました。まだあどけなさの残る政界デビューです。
天禄元年(970年)に従四位下・侍従となり、天延3年(975年)に従四位上、天延4年(975年)に正四位下・左近衛中将とスピード出世を果たしました。
そして天元4年(981年)に従三位へ昇進、天元6年(983年)で参議に任じられ、28歳という若さで公卿(くぎょう。最上級貴族)の仲間入りを果たしたのです。
内大臣として20年、甥の道長政権を支え続ける
寛和2年(986年)に花山天皇が出家・退位して一条天皇が即位すると、皇太子・居貞親王(のち三条天皇。花山天皇の異母弟)付きの春宮権大夫(とうぐうごんのたいふ。後に春宮大夫)に抜擢されました。
そんな長徳元年(995年)、疫病が蔓延したことで関白・藤原道隆ら6名が相次いで病死。政権の穴埋めとして公季は大納言に昇進します。
更に長徳2年(996年)、藤原伊周(これちか。道隆の子)らが間違って花山天皇を襲撃してしまい、完全に失脚します(長徳の変)。
公季は伊周の後任として長徳3年(997年)に内大臣となりました。以来、20年間にわたり内大臣として道長政権を支え続けてきたのです。
ただしまるで野心がなかったかと言えばそうではなく、娘の藤原義子(ぎし/よしこ。弘徽殿女御)を一条天皇に入内させました(ただし子供が生まれず失敗)。
また、孫の藤原公成(きんなり)を養子として引き立てたり、息子の藤原実成(さねなり)を任官させるなど一族の勢力基盤固めにも抜かりありませんでした。
その後、寛仁元年(1017年)には右大臣となり、皇太弟である敦良親王(のち後朱雀天皇)の春宮傳(教育係)を務めます。また寛仁5年(1021年)には従一位・太政大臣にまで昇ったのでした。
そして長元2年(1029年)10月17日、74歳で薨御(貴人が亡くなること)したのです。
死後、朝廷から正一位を贈られ、また仁義公と諡(おくりな。生前の功績に対する称号)されました。
また甲斐国(山梨県)の国公となり、甲斐公とも呼ばれます。
国公とは朝廷の支配を代行する国司と異なり、(実態はともかく)一国を与えられる名誉称号でした。
藤原公季・基本データ
生没 天暦10年(956年)生~長元2年(1029年)10月17日
氏族 藤原氏北家九条流
両親 藤原師輔/康子内親王
兄弟 藤原兼家・深覚(僧侶)ほか……ただし同母兄弟は深覚のみ
改名 宮雄君⇒藤原公季
別名 閑院大臣
諡号 仁義公・甲斐公
官位 従一位(ただし死後に正一位を追贈)/太政大臣
妻妾 有明親王女
子女 藤原義子・藤原実成・如源(僧侶)・藤原親賢・信覚(僧侶)
養子 藤原公成(実成の子)
終わりに
以上、藤原公季の生涯を駆け足でたどってきました。いかがでしょうか。
若きエリートが時流に乗った道長の政権を支えながら、密かに野心を燃やし続けた様子が目に浮かびます。
果たして「光る君へ」では、米村拓彰が渋い役どころを演じてくれるのではと楽しみです。これから、注目していきましょう!