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【歴人録】登場が待ち遠しい!?徳川四天王の一人・井伊直政はどのように家康と出会ったのか【どうする家康】

戦国時代
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井伊谷からやってきた美少年

井伊直政 いい・なおまさ(万千代 まんちよ)
[板垣李光人 いたがきりひと]

女城主直虎によって大切に育てられた井伊家の御曹司で、家臣団の新戦力として活躍。頭の回転が速く、女性によくモテる。プライドが高く、不遜な物言いでよくトラブルを引き起こす。

※NHK大河ドラマ「どうする家康」公式サイトより

徳川家康(演:松本潤)の天下取りを助けた徳川四天王と言えば、酒井忠次(演:大森南朋。左衛門尉)・本多忠勝(演:山田裕貴。平八郎)・榊原康政(演:杉野遥亮。小平太)……そして未登場の井伊直政(演:板垣李光人)。

「徳川十六神将図」より、井伊直政

早く登場して欲しい、今どこで何をしているのか……じれったい視聴者もいることでしょうが、第6回放送(永禄5・1562年)時点で彼はまだ2歳(満1歳)。大河の舞台を彩ってくれるのは、まだしばらく先になりそうです。

ならばせめて気分だけでも予習を兼ねて、江戸幕府の公式記録『徳川実紀(東照宮御実紀)』をのぞいてみましょう。

果たして家康と直政は、どのように出会ったのでしょうか。

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天正3年2月、鷹狩りの道中にて

……三年二月頃御鷹がりの道にてて。姿貌いやしからず只者ならざる面ざしの小童を御覧ぜらる。これは遠州井伊谷の城主肥後守直親とて今川が旗本なりしが。氏真奸臣の讒を信じ直親非命に死しければ。この兒三州に漂白し松下源太郎といふものゝ子となりてあるよし聞召。直にめしてあつくはごくませられける。後次第に寵任ありしが井伊兵部少輔直政とて。国初佐命の功臣第一とよばれしはこの人なりき……

※『東照宮御實紀』天正三年「天正三年井伊直政始仕家康」

【意訳】天正3年(1575年)2月ごろ。家康が鷹狩りに出かけた折、容姿いやしからず、ただ者でない面構えの少年を見つけた。
彼は遠州井伊谷城主・井伊直親(いい なおちか。肥後守)の子で、父が無実の罪で今川氏真(演:溝端淳平)に粛清されると三河に移住。松下源太郎(まつした げんたろう。清景)の継子となっていたと聞いて、家康は少年を直参として召し抱えた。
家康は彼を大変かわいがり、後に天下取りの功績第一と呼ばれるまでに成長した井伊直政(いい なおまさ。兵部少輔)とは彼のことである。

……よほど利発で精悍な顔立ちや、気品ある立ち居振る舞いに一目ぼれしてしまったのでしょう。家康の見る目に狂いはなく、やがて文武両道の名将として忠功を重ねた直政。

井伊直政(画像:Wikipedia)

ただし性格は非常に苛烈で、家臣の些細な失態を許さずしばしば手討ちにしたため「人斬り兵部」の異名をとったと言います。後に武田の精鋭・赤備(あかぞなえ)を継承したため「井伊の赤鬼」とも呼ばれたそうです。

この激しい性格が周囲とのトラブルを招いたものと思われますが、一方で大変な恐妻家でもありました。正室の花(唐梅院。家康の養女)には頭が上がらなかったらしく、「赤鬼」とのギャップがたまりませんね。

正室・花のキャスティングも含め、NHK大河ドラマ「どうする家康」で井伊直政がどんな活躍を見せてくれるのか、今から楽しみです。

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【井伊直政・基本データ】

生 没永禄4年(1561年)2月19日生~慶長7年(1602年)2月1日没
両 親井伊直親、ひよ(奥山朝利女)、井伊直虎(養母)、松下清景(継父)
改 名井伊虎松(または万千代)→松下虎松→井伊直政
別 名井伊の赤鬼・人斬り兵部
妻 妾花(正室)、印具道重女(側室)
子 供井伊直勝、井伊直孝、政子(松平忠吉室)、徳興院(伊達秀宗正室)

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【井伊直政・略年表】

関ヶ原で活躍する井伊直政。「関ヶ原合戦図屏風」より

永禄4年(1561年) 誕生(1歳)

永禄5年(1562年) 父・直親が今川氏真に粛清される(2歳)

永禄11年(1568年) 三河鳳来寺に預けられる(8歳)

天正2年(1574年) 母ひよが松下清景と再婚する(14歳)

天正3年(1575年) 家康に仕える(15歳)

天正9年(1581年) 高天神城の合戦に参加(21歳)

天正10年(1582年) 元服(22歳)
同年 本能寺の変に際して、三河へ帰還する家康を護衛(神君伊賀越え)

天正11年(1583年) 正室の花と結婚(23歳)

天正12年(1584年) 小牧・長久手の合戦で活躍(24歳)

天正14年(1586年) 徳川家中で最も格式の高い侍従に任官(26歳)

天正18年(1590年) 北条征伐で活躍、小田原場内へ夜襲をかける(30歳)

慶長5年(1600年) 関ヶ原の合戦で活躍するが、島津の銃撃で負傷(40歳)

慶長7年(1602年) 関ヶ原の鉄砲疵が元で死去(42歳)

※参考文献:

  • 『寛政重脩諸家譜 第四輯』国立国会図書館デジタルコレクション
  • 『徳川實紀 第壹編』国立国会図書館デジタルコレクション

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