戦国時代、日本全国に割拠する群雄たちを従えて、天下統一を果たした豊臣秀吉(とよとみ ひでよし)。
しかし、誰もが喜んで従った訳ではなく、中には逆心を隠して隙あらば謀叛を企む者も少なくなかったようです。
今回はそんな一人である鍋島主水(なべしま もんど。茂里)とその主君・鍋島直茂(なおしげ。茂里の養父)のエピソードを紹介したいと思います。
今ここで秀吉を討つのはたやすいが……
時は文禄元年(1592年)4月25日、秀吉が朝鮮出兵(文禄の役)の前線基地として肥前国松浦郡(現:佐賀県唐津市)に名護屋城を築き上げ、入城した時のこと。
鍋島主従も二番隊として出陣を控え、軍勢を引き連れて名護屋城へ入った時、主水が直茂に進言します。
「太閤(秀吉)殿下は油断しておいでのご様子……討つならば今が好機にございまする」
ちょうど朝鮮へ渡るべく精鋭を取りそろえており、しかも秀吉はそれが自分に刃向かって来ようとは露ほども疑っていないはず。
幼少時から文武両道、常に鍋島家の先陣を担ってきた若き英雄は、目の前に転がっている「天下」を奪い取らんと意気込んでいます。
しかし、直茂は血気に逸る主水を諭しました。
「確かに討つのはたやすいが、その後が続かなければ三日天下に終わってしまう。また、殿下を喪った混乱に乗じて三ヶ国ばかり切り取るのもたやすいが、これを十代にわたって維持することはとても成るまい。今は肥前一国を堅く守り、子孫へ受け継ぐのが肝要ぞ」
……そう言われては、さすがの主水も引き下がらずを得ず、大人しく朝鮮へ渡航して、大いに暴れ回ったということです。
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終わりに
六一 太閤様、名護屋御越しの節、主水殿、御謀叛勧められ候。その時、直茂公御意なされ候は、「討つ事は安き事なり。然れども末がつゞかぬなり。また三國領するも安き事なれども、十代と治むる事迚も成るまじ。一國ばかりは長久すべし。」と仰せられ候由。
※『葉隠』巻第十一より
かくして命拾い?した秀吉でしたが、もし直茂が秀吉を討とうとしても、同じく二番隊に属していた秀吉子飼いの加藤清正(かとう きよまさ)の軍勢が目を光らせていたでしょうし、謀叛の成功は難しかったことでしょう。
また、幸運にも秀吉を討てたところで、周囲の大名たちに根回しが出来ていなければ本能寺(織田信長を討った明智光秀)の二の舞は避けられません。
どのみち、まともな準備もない状態で天下、あるいは混乱に乗じて三ヶ国ばかりを獲ったところで、それを維持出来ないのは明らかです。
そもそも、秀吉の天下統一によって時代は大きく変わっており、秀吉が生きている間は天下を狙える状況でないことは、直茂も悟っていたでしょう……少なくとも、生きている間は。
秀吉が死んだら、再び天下は大きく動く……それまでは肥前一国の備えを固めておくことを、直茂は選んだのでした。
※参考文献:
古川哲史ら校訂『葉隠 下』岩波文庫、2011年12月
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