剣道と言えば、日本を代表する武道の一つとして有名ですね。
相手の面、胴、そして小手(こて。籠手)へ有効打突を入れるべく(また相手から入れられぬよう)互いに攻防するのですが、かつて剣道の源流である剣術を生業としていた武士たちは、少し勝手が違ったようです。
今回は戦国時代から江戸時代にかけて活躍した黒田二十四騎の一人・野口左助一成(のぐち さすけかずしげ)のエピソードを紹介したいと思います。
肉を切らせて骨を断つ…野口「左助」かく戦えり
野口一成は永禄2年(1559年)に播磨国加古郡野口村にある教信寺(現:兵庫県加古川市)の僧侶・浄金(じょうこん)の子として生まれました。
幼名は彦次郎(ひこじろう)、母親は不明。恐らくその辺の娘など手籠めでもしたのでしょうが、細かいことはともかく天正3年(1575年)、17歳で元服して父の囲碁仲間であった黒田孝高(くろだ よしたか。官兵衛)に仕えます。
天正5年(1577年)の高倉山城(現:兵庫県たつの市)攻めを初陣とし、敵将・神吉小伝次(かみよし こでんじ)を討ち取って以来数々の戦場で武勲を立て、小田原征伐や朝鮮出兵、関ヶ原の戦いなど数々の合戦で活躍しました。
そんな一成の格闘スタイルは現代人の感覚からすると少し変わっていて、普通は「斬られまいと敵の攻撃をかわし、敵の隙を衝いて攻撃する」べきと思いそうなものですが、一成はあえて左腕を攻撃させながらそのまま突っ込み、敵を斬り倒すというものでした。
……と聞くと腕が何本あっても足りなさそうですが、言うまでもなく左腕には籠手を装着しており、それを刀で断ち斬ることは(鉄板ならもちろん、革であっても)難しいため、ためらわずに突っ込んだのです。
もちろんノーダメージではなく、自分も多少は傷を負っており、まさに「肉を切らせて骨を断つ」を地で行ったのでした。
すると当然のごとく傷を負うのは身体の左側が多くなり、最初は藤九郎(とうくろう)と呼ばれていた一成は、いつしか左助と呼ばれるようになっていたそうです。
とある剣客との立ち合いにて
そんな左助がある時、ある剣客と立ち合った際、相手の木刀を左手で受け止めて右手の木刀で反撃。一本とりましたが、剣客は抗議してきました。
「手で刀を受け止めるなんて剣術は聞いたことがない。ルール違反だろう」
普通に考えれば刃で手が切れてしまう訳だし(現代の剣道でもルール違反です)……しかし左助は違います。
「……待っとれ」
左助は自分の具足櫃(ぐそくびつ。鎧櫃)を持ってくると、中から籠手を取り出しました。
数々の戦闘でズタズタに斬られ、補修してまた斬られした太刀痕が無数に刻まれた籠手に、剣客は息を呑みます。
「事実わしはこうやって戦い、敵を斬って生き延びて参った。お遊戯ならばいざ知らず、いざ戦さ場で『ルールがどうの』『作法がどうの』などと言うておったら、命がいくつあっても足らんわい」
剣術の腕前を売り込みにきたのでしょうが、いざ合戦の場で後れをとるようでは話にならない……その剣客は、黒田家への仕官を諦めて立ち去ったのでした。
終わりに
その後、黒田家が関ヶ原の功績によって筑前国(現:福岡県北部)へ転封されると、左助は鉄砲組大頭として2,500石を拝領、元和9年(1623年)には3,000石に加増されます。
寛永14年(1637年)に勃発した島原の乱ではさすがに最前線とはいかず主君・黒田忠之(ただゆき。孝高の孫)の側に控え、戦後に隠居。そして寛永20年(1643年)4月8日、85歳の生涯に幕を下ろしました。
主君のために文字通り我が身を惜しまず戦い続けた左助のスタイルは、武術・武芸から武道へと洗練された現代の剣道にはそぐわないようですが、その死に物狂いな姿は、今なお私たちの胸を打ちます。
※参考文献:
- 本山一城『黒田官兵衛と二十四騎』宮帯出版社、2014年3月
- 本山一城『黒田軍団 如水・長政と二十四騎の牛角武者たち』宮帯出版社、2008年9月
コメント