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巨星墜つ!甲斐の虎・武田信玄の死因を『徳川実紀』はどう伝えたか【どうする家康】

戦国時代
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戦国最強のレジェンドとして、徳川家康(演:松本潤)の障壁として立ちはだかる「甲斐の虎」武田信玄(演:阿部寛)。

三方ヶ原では完膚なきまでに打ちのめされた家康が、恐怖のあまり失禁してしまったエピソードは有名ですね。

家康のしかみ像。それにしても、自分のみっともない姿をあえて描き残させた度量はもちろん、絶対に生き延びる(リベンジする)と確信していた胆力も見上げたもの。

このまま家康を滅ぼすかと思いきや、あと一歩のところで引き返して行きました。

天下に名だたる戦上手も、寿命には勝てなかったようです。時に天正2年(1573年)4月12日、享年53歳。

一般に信玄の死因は病死(癌など諸説あり)とされますが、江戸幕府の公式記録『徳川実紀(東照宮御実紀)』にはどうあるのでしょうか。

三方ヶ原の合戦後から、信玄の動向を読んでみたいと思います。

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野田城の合戦にて

……元亀も三年に天正とあらたまる。信玄はいよゝゝ軍伍をとゝのへ。正月三河の野田の城にをし寄はげしく攻て。終に菅沼新八郎定盈城兵にかわりて城を開渡すに及て。たばかりてこれを生取しが。山家三方の人質にかへて定盈ふたゝび帰ることを得たり。この城攻の時入道鉄砲の疵を蒙り。四月十二日信濃国波合にてはかくなりぬ……

※『東照宮御実紀』巻二「信玄卒」

【意訳】元亀3年(1572年)に改元が行われ、天正元年(1572年)となった。三方ヶ原で大勝利を収めた信玄は態勢を調え、明けて天正2年(1573年)正月。三河野田城に押し寄せて激しく攻め立てる。

城主の菅沼定盈(すがぬま さだみつ。新八郎)は武田の猛攻をよく防いだが、城兵の命を助けることを条件に城を開く。定盈は城を去る時、約定を違えて生け捕りにされるも、山家・三方ヶ原での人質と交換に解放された。

立雲芳年「大日本名将鑑 武田大膳大夫晴信入道信玄」

信玄はこの城攻めに際して銃撃を受けて負傷。甲斐国へ引き上げる途上、4月12日に信濃国波合(長野県下伊那郡)で儚くなった(亡くなった)。

……銃撃の日時がはっきりしないため、直接の死因かどうかは定かではありません。しかし文脈から察して野田城攻めの鉄砲傷が信玄の死に影響を及ぼしたことは間違いなさそうです。

(かねて病魔におかされていたところ、鉄砲傷により大きく体力を損耗したのでしょう)

ともあれ、信玄の死によって家康たちは命拾いしたのでした。

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偉大なる敵の死を惜しむ家康

となれば欣喜雀躍してもよさそうなもの。しかしそこは家康、他人の不幸を喜ぶような態度は見せません。

……   君は信玄が死を聞しめし。今の世に信玄が如く弓矢を取進すものまたあるべからず。我若年の頃より信玄が如く弓矢を取たしと思ひたり。敵ながらも信玄が死は悦ばずおしむべき事なりと仰せられしかば。これを聞ものますゝゝその寛仁大度を感じ。御家人下が下まで信玄が死はおしむべきなりと御口真似をせしとぞ。……

※『東照宮御実紀』巻二「信玄卒」

【意訳】家康は信玄の訃報に接し、その死を深く惜しんだ。

「信玄ほど弓矢を取り進ずる者が、天下にまたと出ることはあるまい。わしは若いころから信玄のような弓取りになりたいと憧れておった。たとえ敵であろうと、その偉大な死を喜ばず、惜しむべきである」

これを聞いた家臣や領民たちは、口を揃えて信玄の死を惜しむべしと口真似したという。

信玄の薫陶を受けて、天下を獲るまでに成長した家康。歌川芳虎筆

……古来「英雄は英雄を知る」と言いますが、武田信玄と全力で戦ったからこそ、その真価を理解していたのでしょう。

文中「口真似」と聞くと、何だか口調を面白おかしく茶化したような印象を受けるものの、ここでは「腹落ちしていないけど主君が言うからそれに倣った」と考えられます。

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終わりに

以上『徳川実紀』より武田信玄の最期と死因について紹介してきました。

果たしてNHK大河ドラマ「どうする家康」では、阿部寛がどのような死を演じてくれるのでしょうか。

今からとても楽しみですが、やはり信玄公の死は惜しまれてなりません。覚悟を決めて見届けましょう!

※参考文献:

  • 経済雑誌社『徳川実紀 第壹編』国立国会図書館デジタルコレクション
  • 小和田哲男『詳細図説家康記』新人物往来社、2010年3月

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