令和8年(2026年)4月末、海上封鎖が続くホルムズ海峡を、日本のタンカー出光丸(いでみつまる。出光興産系列)が通過したことが報じられました。
これを受けて駐日イラン大使館は、X上に日章丸(にっしょうまる)の画像と「この遺産が意義を持ち続けている」とのコメントを合わせて投稿しています。
日章丸とは出光興産のタンカーで、昭和28年(1953年)にイギリス海軍の海上封鎖を非武装で突破し、イランから石油を輸入することに成功しました。この一件は日章丸事件と呼ばれています。
出光丸の通過許可と日章丸事件との直接的な関係はあえて明言されていませんが、まったく無関係ということはないでしょう。
そこで今回は日章丸事件とは何か、イラン大使館の言う「遺産」とは何なのか、わかりやすく紹介したいと思います。
イギリスとイランの対立・アバダン危機が勃発

第二次世界大戦後、イランはイギリス・ソ連の占領下を脱したものの、国内の石油資源をイギリス石油メジャーAIOC(アングロ・イラニアン・オイル・カンパニー)に握られた状態でした。
このままでは、いつまで経っても植民地状態から逃れられません。
そこでイラン政府は、昭和26年(1951年)に石油資源の国有化を宣言。AIOCの資産を接収したのです。
これでは商売あがったりだとイギリスは反発。これまでのえげつない所業は棚に上げ、海軍を派遣してイランを海上封鎖しました。
イランから石油を買いつけるタンカーなどあろうものなら、片っ端から撃沈してくれる……世界第二位の海軍王国イギリスが睨みをきかせては、イランから石油を買うことなどできません。
石油利権を返せ。さもなくばこのまま干殺しだと言わんばかりのイギリスに対して、イランも意地を見せます。
両国の対立は激化し、このままでは再び開戦もあり得る……後にアバダン危機と呼ばれる一触即発の事態に陥ったのです。
出光興産の決断

一方そのころ日本では、大東亜戦争の敗北によって焦土と化した祖国を復興しようと懸命に励んでいました。
しかし日本を占領する鬼畜米英……もとい連合軍によって、再び刃向かうおそれのある力を削がれ、占領後も様々な制約を受けて発展を阻害されます。
日本の未来を憂えた出光興産社長の出光佐三(いでみつ さぞう)は、アバダン危機を知って活路を見出しました。
日本は復興のために石油が欲しい。イランは経済的自立のために石油を売りたい。そしてイギリスによる実力行使には、国際法上の正当性がありません。
もう欧米列強が武力ずくで有色人種(アジア・アフリカ・ラテンアメリカなど)を搾取してきた帝国主義を終わりにしたい。そんな大義と実利を求め、出光はイランから石油の輸入を決断します。
イギリス政府はもちろん、事なかれ主義の日本政府ともトラブルにならないよう、またイラン政府の信頼を構築するために周到な根回しを行いました。
ほかにも日本政府が不利とならないような国際法遵守や、国際世論および各国の動向予測、そして航路の事前調査など余念がありません。
そして昭和28年(1953年)3月23日午前9時、日章丸(二代目)は極秘裏に神戸港から出航したのです。
丸腰でイギリス海軍の厳戒網をくぐり抜ける

かくして、結論から言えば「イギリスの圧力に屈しなかった出光興産が、イランから石油を輸入することに成功」したのでした。
が、実際には言うほど簡単なことではありません。何せイギリス海軍が血眼になって警戒している海域を、巨大なタンカーが非武装で掻いくぐらなければならないのです。
日章丸は航路を偽装してイギリス海軍の警戒網をくぐり抜け、昭和28年(1953年)4月10日にアバダンへ入港したのでした。
こうなると、もう隠すことはできません。日章丸の壮挙(暴挙?)は世界各国のメディアによって大々的に報道され、当然それはイギリス当局にも知られることとなります。
非武装の大型タンカーが、イギリス海軍の厳戒態勢をくぐり抜けてしまうとは……。
かつて七つの海を股にかけ、今なお世界第二位に輝くイギリス海軍。それをここまでコケにするおバカさんは、きっと初めてだったのではないでしょうか。
さぁ喧嘩を売ってしまった以上、もう後には退けません。大急ぎで石油を積み込んだ日章丸は、4月15日にアバダン港から出航しました。
今度はイギリス海軍も本気の殺意を向けて日章丸を索敵します。
もし見つかれば絶対に撃沈されてしまう。と言って、あまりにイギリス海軍から離れたルートを選ぶと、今度はバラまかれた機雷(海洋地雷)の餌食になってしまうでしょう。
日章丸はギリギリのラインを攻めてイギリス海軍の厳戒網を再び突破、昭和28年(1953年)5月9日9時に川崎港へ入ったのでした。
武力がダメなら訴訟で……AIOCから訴えられる

あぁ無事でよかった、めでたしめでたし……と言いたいところですが、このまま黙っているイギリスではありません。
AIOCが「石油を返せ」と主張して出光興産を訴え、同時進行でイギリス政府も日本政府に対して出光興産を処分するように圧力をかけたのです。
力づくで屈しない相手は法的に潰そうとする……さすが紳士の国イギリスと言ったところでしょうか。
しかし、イギリスによる強引な石油利権の独占を快く思わないアメリカは、出光興産を黙認。また同じくイギリスに反感を覚える国際世論の後押しもあり、出光興産の正当性が認められました。
結局イギリスが昭和28年(1953年)10月29日に訴えを取り下げ、出光興産の勝訴に終わったのです。
かくして日本とイランを結ぶ石油調達ルートが確立されたかと思いきや、その後イランで起きたクーデターによってイギリスの石油利権が事実上復活。そのため石油の輸入が終了してしまったのでした。
とは言え日章丸事件によって、石油の自由貿易を求める世界的な機運が高まり、敗戦国や旧植民地国も経済的自立を勝ち取っていくキッカケとなったということです。
終わりに

今回は日本企業がイランから石油を輸入した日章丸事件について、わかりやすく紹介してきました。
大国が力を背景に一国を虐げ、誰もが見て見ぬふりをする中で、唯一救いの名乗りを上げた勇気は人々に感動を与えています。
令和21世紀の現代に同じことはできないしすべきでもありませんが、先人たちが命懸けで築き上げた「遺産」を、無駄にすべきではないでしょう。
今すぐこの場でどうするべきとの結論は出せないものの、一日も早いホルムズ海峡の平和的航行が再開されることを願ってやみません。
※参考文献:
- 読売新聞戦後史班 編『日章丸事件 昭和戦後史 イラン石油を求めて』冬樹社、1981年1月

