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【歴史用語】信長や戦国大名の書状「隙が明く」とは?わかりやすく紹介!

戦国時代
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戦国武将たちは「隙が明く(すきがあく)」という表現をしばしば用いました。

現代でも「隙を見せるな」とか「隙を衝かれた」などと使いますが、戦国時代ではどのような意味で用いたのでしょうか。

今回はこの「隙が明く」について、用例や用法をわかりやすく紹介いたします。

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信長の書状より

織田信長(画像:Wikipedia)

……此口(このくち)隙明(すきあき)候間(そうろうかん)、軈て(やがて)帰陣せしむべく候……

これは天正10年(1582年)に甲斐武田氏を滅ぼした後、京都の公卿・久我季通(こが すえみち)にあてた書状の一部です。

【意訳】こちらは「隙が明けた」ので、間もなく軍勢を撤退・帰国させようと思います。

元来「隙が明く」とは「ヒマになる」という意味です。しかし書状の内容からすると、そこまでのんびりしたニュアンスではないでしょう。

文脈をくみとれば、ここで信長が言っている「隙が明く」とは「軍事作戦が一段落した」だから「余裕ができた」ことを意味しているようです。

他にも信長は越前の朝倉氏を滅ぼした元亀4年(1573年)や、長篠合戦で武田氏を撃退した天正3年(1575年)にも「隙明候」と記した書状を出していました。

やはり軍事作戦が一段落したタイミングで「隙が明けた」と認識していたようです。

基本的に、戦国大名の人生は合戦のスケジュールがびっしり詰め込まれていて、敵を撃滅≒一段落することで「スキマができた(隙が明けた)」というイメージだったのかもしれませんね。

その他「隙が明く」用例

佐竹義重(画像:Wikipedia)

他の武将や大名たちも、同じ意味で「隙が明く」という言葉を使っていたのでしょうか。

例えば永禄12年(1569年)、常陸の佐竹義重(さたけ よししげ)が越後の上杉謙信に対してこんな書状を送っています。

……関東中思し召しが如く、御隙を明けられるべくについては、然るべく候……

【意訳】関東地方が上杉殿の思い通りとなり、関東遠征が一段落することは、間違いないでしょう。

また同じ関東ということで、信長がこんな書状も発していました。

……東八州事、勿論異議なく、隙明け候……

【意訳】関東八州についてはもちろん誰も逆らう者はおらず、一段落ついた。

こちらは武田氏の滅亡にともなって南関東の北条氏が織田に臣従。関東管領として織田家臣の滝川一益が上野国に入ります。

上杉謙信の方は軍事作戦の完了、信長の方は戦わずして平定したのですが、いずれも一段落ついたことは変わりません。

軍記物語ですが、こちら『太閤記』でも隙明が使われています。

……羽柴筑前守も中国平均に打治め、隙を明、今明之際(あいだ)吊合戦(弔合戦)のため上洛……

こちらはいわゆる中国大返しの名場面で、中国平定(毛利氏との和睦)によって隙が明いたので、信長の弔い合戦をするため大急ぎで京都へ駆け戻ったのでした。

どれも「一段落して、手空きになった」という認識は同じだったようです。

終わりに

今回は戦国時代に用いられた「隙が明く」という言葉について紹介してきました。

現代の私たちにとっては耳慣れないため、昨今の時代劇や大河ドラマで聞く機会はあまりないのではないでしょうか。

何なら昔の時代劇でも、ほとんど使われていなかった気がします。

とは言え、こういう言葉を少しずつ学ぶことで、古文書が理解できた!なんてことがあるかも知れません。

これからも少しずつ歴史に関する知識を学び、教養を深めていきたいですね。

※参考文献:

  • 盛本昌広『増補新版 戦国合戦の舞台裏』洋泉社、2016年9月
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