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【歴人録】室町時代に活躍したハーフ商人・楠葉西忍とは何者?その生涯をたどる

南北朝・室町時代
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日本は四方を海に囲まれていることから、周辺国の影響をあまり受けなかったと考えられがちです。

しかし実際には海洋を通じて多様な民族との交流があり、中には日本と外国の双方にルーツを持つハーフもいました。

今回は室町時代に活躍したと言われる楠葉西忍(くすば さいにん)を紹介。果たしてどんな人物だったのでしょうか。

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天竺と日本のハーフ

天竺=インドとは限らない?(イメージ)

楠葉西忍は応永2年(1395年)、天竺商人ヒジリと河内国楠葉(大阪府枚方市)出身の女性との間に誕生しました。

天竺(てんじく)とは一般にインドを指す古語ですが、インドネシアのジャワ地方やアラビア方面であった可能性も考えられています。

幼名はムスル、成人して通称を天次(てんじ)、苗字を天竺と名乗りました。天竺天次(てんじく てんじ)、何だか語呂がいいですね。

父のヒジリは第3代室町将軍・足利義満の時代に来日し、京都相国寺で絶海中津(ぜっかい ちゅうしん)の庇護を受けていました。

やがてヒジリは京都の三条坊門烏丸に住み、人々からその人徳を賞賛されるようになります。

しかし第4代・足利義持の時代に将軍の勘気を被り、ヒジリは処罰されてしまいました。

処罰された詳細や理由はわかりません。義持がヒジリの人望を妬んだのか、あるいは人望に驕ったヒジリが出過ぎた振る舞いに及んだ可能性も考えられます。

日明貿易に貢献

日明貿易(イメージ)

天竺天次は京都から大和国立野(奈良県三郷町)へ移り住み、興福寺大乗院(奈良市)へ奉仕しました。

そこで実弾房宗信(じつだんぼう そうしん)と知り合い、その妹を妻に迎えます。

舅の立野戌亥(たちの いぬい)は大和川の水運を取り仕切っており、これが後に天次が商人として活躍する素地となったのでしょう。

永享元年(1429年)に長男の楠葉元次(げんじ/もとつぐ)が誕生したほか、二男二女を授かりました。

※時期は不明ですが、苗字を母親の故地である楠葉に改めたようです。

永享4年(1432年)に遣明船へ乗り組み、初めて明国へ渡航します。

次の渡航は享徳2年(1453年)、この時は多武峰寺・長谷寺(いずれも興福寺末寺)の外官に任命されていました。また25歳となっていた長男の元次を同行させています。

一行は南京を経て首都の北平(北京)まで北上、銅・生糸・明銭などの交易に携わりました。

これらの活動は大乗院主の尋尊(じんそん)が報告をまとめた『大乗院寺社雑事記』『唐船日記』に記録され、当時の勘合貿易(日明貿易)を知る貴重な史料となっています。

晩年は出家して西忍と号し、文明18年(1486年)2月13日に92歳で世を去りました。

楠葉西忍・基本データ

  • 生没:応永2年(1395年)生~文明18年(1486年)2月13日没
  • 両親:天竺商人ヒジリ/生母不詳(河内国楠葉出身)
  • 改名:ムスル→天竺天次→楠葉天次→楠葉西忍
  • 妻妾:立野戌亥女
  • 子女:三男二女(長男・楠葉元次ほか)
  • 職業:商人、遣明使など
  • 略系図:……ヒジリ-楠葉西忍-楠葉元次……

終わりに

今回は室町時代に活躍した楠葉西忍の生涯をたどってきました。天竺にルーツを持つと知った彼は、父の故郷に興味を持ったかもしれませんね。

他にも外国や異民族にルーツを持つ人物はたくさんいるので、改めて紹介したいと思います。

※参考文献:

  • 『日本史大事典 2』平凡社、1993年
  • 吉村武彦 編『日本の歴史を解く100人 再評価される歴史群像』文英堂、1997年
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