New! 柴田勝家の息子たちを紹介!

【歴人録】滅亡した柴田勝家の子供たちは?柴田勝里・柴田勝忠兄弟を紹介!【豊臣兄弟!】

戦国時代
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天正11年(1583年)4月24日、柴田勝家とお市の方は羽柴秀吉に攻められ、越前北ノ庄城で自害して果てました。

かくして織田家の筆頭家老を務めた柴田家は滅亡しますが、勝家には息子がいたと伝わります。

今回は柴田勝里(かつさと)・柴田勝忠(かつただ)兄弟を紹介。それぞれどのような生涯をたどったのでしょうか。

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柴田勝里とはどんな武将?

織田信雄(画像:Wikipedia)

生没年不詳

江戸時代の尾張藩士系図集『士林泝洄(しりんそかい)』によると、勝家の庶子となっています。

庶子とは正式な妻(正室・側室)以外の女性との間に生まれた非嫡出子で、嫡男(嫡出子)がいる場合、基本的に家督の継承権はありませんでした。

元服して通称を庄左衛門(しょうざえもん)、または茂左衛門(もざえもん)と名乗っています。

織田信雄(信長二男)に仕えたそうですが、その時期や待遇について、詳しいことはわかっていません。

父の滅亡に殉じたなら、敵対する信雄の元を去ったでしょう。また父の滅亡によって信雄へ仕えた可能性や、一貫して信雄に忠義をまっとうして可能性も考えられます。

柴田勝忠(毛受照清)とはどんな武将?

生年不詳~慶長5年(1600年)没

こちらも勝家の庶子で、生母については詳しくわかっていません。家臣の毛受勝照(めんじゅ かつてる)が養育し、のち養子へ迎えたとも言われています。

天正11年(1583年)の賤ヶ岳合戦、北ノ庄城合戦で柴田勝家や養父の毛受勝照が敗死すると、伯母(吉田次兵衛の妻)に匿われて北ノ庄城から脱出しました。

その後は佐久間盛次(鬼玄蕃こと佐久間盛政の父)に保護され、毛受照清(てるきよ)と改名します。

羽柴政権下では大谷吉継に仕え、慶長5年(1600年)の関ヶ原合戦で討ち死にしました。

毛受照済(てるずみ/てるさだ)・毛受吉照(よしてる)という息子がいたと伝わりますが、いずれも若くして亡くなったとも言われています。

終わりに

今回は柴田勝家の息子たちについて紹介してきました。勝家は他にも多くの養子を迎えており、それぞれに活躍したそうです。

果たして大河ドラマ「豊臣兄弟!」には、彼らは登場するのでしょうか。登場するなら誰がキャスティングされるのかも楽しみですね。

※参考文献:

  • 和田裕弘『織田信長の家臣団―派閥と人間関係』中公新書、2017年
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