子供の出来ない万里小路有功(演:福士蒼汰。お万の方)に代わり、徳川家光(演:堀田真由)と子(後の徳川綱吉)をなした玉栄(演:奥智哉→竜雷太)。
やがて歳月は流れ、成長した徳川綱吉(演:仲里依紗)に子供ができない(一人娘の徳松は夭逝)原因が己の殺生と知り、世に悪名高い「生類憐みの令」を出させたのでした……。
この玉栄のモデルは綱吉の母・桂昌院(けいしょういん)。通称は玉(お玉)と呼ばれた彼女は、果たしてどんな女性でどんな生涯をたどったのでしょうか。
出自にまつわる諸説と「玉の輿」
お玉は寛永4年(1627年)、本庄宗正(ほんじょう むねまさ。北小路宗正、関白・二条光平の家司)の娘として京都で誕生しました。
……と『徳川実紀』は伝えるものの、実際はもっと身分の低い出自であると生前から噂されていたようです。
- 西陣織屋の娘?……『鸚鵡籠中記』
- 畳屋の娘?……『御当代記』
- 二条家の家司・北小路宮内と高麗人下女の娘?……『遠碧軒記』
- 大根売りの娘?……『元正間記』
- 八百屋・仁左衛門の娘?……『玉輿記』
その出自に諸説はあるものの、器量よしが見込まれて13歳となった寛永16年(1639年)にお万の方(万里小路有功)の部屋子として仕えます。
※有功と共に出家していたというのはオリジナル設定のようです。
大奥で奉公していたお玉は春日局(演:斉藤由貴)に認められ、秋野(あきの)と改名して将軍付きの中臈に昇格しました。
大奥では順性院(じゅんしょういん。お夏の方)と対立して折檻を受けることもあったと言いますが、やがて家光に見初められて側室となります。
そして正保3年(1646年)1月8日に徳松(とくまつ。後の綱吉)を産んだのです。
慶安4年(1651年)に家光が亡くなると出家して大奥を去りますが、延宝8年(1680年)に第4代将軍・徳川家綱(いえつな。母は側室・お楽の方)が亡くなり、綱吉が将軍になると江戸城三の丸へ戻りました。
いらい彼女は権勢を振るい、実家の本庄一族はお陰で美濃高富藩(岐阜県山県氏)・信州小諸藩(長野県小諸市)・丹後宮津藩(京都府宮津市)・常陸笠間藩(茨城県笠間市)・下野足利藩(栃木県足利市)など大名になっています。
彼女自身も朝廷より従三位(貞享元・1684年)、従一位(元禄15・1702年)を賜り、従一位と同時に藤原光子(ふじわらの みつこ)の名も授かりました。
当時の女性として、これ以上はない高みへと上り詰めた桂昌院。彼女は宝永2年(1705年)6月22日に79歳で世を去りました。今は増上寺(東京都港区)に眠り、遺髪は善峯寺(京都市西京区)に祀られています(桂昌院廟)。
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終わりに
以上、お玉こと桂昌院の生涯をざっくりとたどりました。
大根売りの娘(諸説あり)が将軍の母に……この伝承から「玉の輿に乗る」という慣用句の語源と言われますが、これは史料による裏付けがないようです。
果たして彼女は武士の娘か八百屋の娘か……ところで彼女は人に衣服を贈る時、その襟や袖に当て布をしたと言います。
「なぜそのようなことをされるのですか?」
綱吉が尋ねたところ、桂昌院は「受け取る相手が襟や袖の汚れで不快にならないように」とのこと。自分が偉いからどんな状態でも有難く受け取れと驕ることなく、相手に対する気遣いを忘れないバランス感覚から「(人への気遣いを思いつかないほど)尊すぎず、(人を気遣う余裕がないほど)卑しすぎない」身分の出自であったのではないでしょうか。
ところでかの悪名高い生類憐みの令について、これまで僧侶の隆光(りゅうこう)が進言したと考えられてきました。しかし隆光が桂昌院と接点を持つ前から発令されていることから、この説は後退しているようです。
ところで、綱吉に近づいて綱吉の暴走を諫めていた右衛門佐(ゑもんのすけ。演:山本耕史)のモデルは右衛門佐局(~のつぼね)。元は中宮・鷹司房子(たかつかさ ふさこ)に仕えるやんごとなき女性でした。
ドラマ10「大奥」では桂昌院や柳沢吉保(演:倉科カナ)らと対立を続けるようですが……今後の展開に注目ですね。
※参考文献:
- 高柳金芳『徳川妻妾記』雄山閣、2003年8月
- 石田俊『近世公武の奥向構造』吉川弘文館、2021年11月
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