承久3年(1221年)5月21日、後鳥羽上皇(演:尾上松也)との最終決戦(承久の乱)に臨むため、鎌倉から出陣した北条泰時(演:坂口健太郎)。
総大将として威風堂々と東海道を進撃しますが、官軍との第一戦&初勝利を収めたのは泰時ではなく、北陸道大将軍(ほくろくどうだいしょうぐん。響きがカッコいい!)として日本海側から進撃した弟の北条朝時(演:西本たける)でした。
その活躍が鎌倉幕府の公式記録『吾妻鏡』にはどのように書かれているのか、さっそくひもといていきましょう。
越後国・願文山の合戦にて
雨降。佐々木兵衛尉太郎信實〔兵衛尉盛綱法師子〕相從北陸道大將軍〔朝時〕令上洛。爰阿波宰相中將〔信成卿。亂逆之張本云々〕家人酒匂八郎家賢〔腰瀧口季賢後胤〕引率伴類六十餘人。籠于越後國加地庄願文山之間。信實追討之訖。關東士敗官軍之最初也。相州。武州等卒大軍上洛事。今日達叡聞云々。院中上下消魂云々。
※『吾妻鏡』承久3年(1221年)5月29日条
【意訳】雨が降る。佐々木信実(ささき のぶざね。兵衛尉太郎)は北条朝時に従って上洛していた。ここに酒匂八郎家賢(さこう はちろういえかた)が兵60ばかりを率いて越後国加地荘の願文山(現:新潟県新発田市)に立て籠もっており、信実はこれを攻め滅ぼした。坂東武者が官軍を撃破したのは、これが最初である。
やがて北条時房(演:瀬戸康史)や泰時が大軍を率いて上洛するとの知らせが朝廷に届き、みんな魂消てしまったということである。
……佐々木信実は佐々木四兄弟の三男・佐々木盛綱(演:増田和也)の子。血気盛んで少年時代、侮辱を受けたとして工藤祐経(演:坪倉由幸)をぶん殴る流血事件を起こして勘当されていました(後に赦されます)。
対する酒匂家賢は鎌倉討伐の首謀者である藤原信成(ふじわらの のぶなり。阿波宰相)に仕え、この戦闘で討死。後(昭和時代)に願文山神社が創建され、忠君愛国のご祭神として祀られています。
「これは一体どういうことだ!」
さぁ大変です。内裏では後鳥羽上皇がもうカンカン。藤原秀康(演:星智也)や三浦胤義(演:岸田タツヤ)らを怒鳴り散らしたであろうことは、想像に難くありません。
確か開戦前、胤義は「兄・三浦義村(演:山本耕史)は『烏滸(おこ)の者』だから日本国惣追捕使≒鎌倉殿の地位を約束すれば簡単に寝返り、朝敵認定された執権・北条義時(演:小栗旬)に従う者など一千騎にも満たないから楽勝圧勝!(要約)」と言っていたのに。
あぁそれなのに、いざ挙兵してみれば坂東武者たちはどういう訳か徹底抗戦の構え。肝心の義村が寝返るどころか義時に忠誠を誓い、尼御台・政子(演:小池栄子)の演説で一致団結……これは「読みが甘すぎた」の一言に尽きます。
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終わりに
「それほどまでに、坂東の怨みは深かったのか……」
この数百年来、武士と言えば公家たちの地下人(ぢげにん)として用心棒や小間使いに奔走し、ささやかな官位(官職と位階)や褒美で手懐けられる「家畜」に過ぎませんでした(さすがに表立って言う者はいなかったでしょうが)。
それをあの源頼朝(演:大泉洋)が鎌倉に武家政権を打ち立てて以来、人間がましく大手を振ってのさばり始めた……頼朝の遺志を受け継ぎ、その恒久化を図る執権・義時が許せなかったのです。
「陛下、ご安心下さい。敵は大軍と申せ、所詮は烏合の衆に過ぎませぬ。東夷(あづまゑびす)など、我らが攘(うちはろ)うてご覧に入れます」
「うむ、任せたぞ」
かくして戦端が開かれた承久の乱。その後も各地で激闘が繰り広げられるのですが、また改めて紹介できたらと思います。
※参考文献:
- 五味文彦ら編『現代語訳 吾妻鏡8 承久の乱』吉川弘文館、2010年4月
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