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【松井友閑・略伝】
織田信長の右筆として頭角を現し、天下の商都・堺の代官として活躍した松井友閑。
財務や外交に手腕を振るい、その才覚を活かして羽柴秀吉や徳川家康とも接近しました。
また茶の湯にも通じ、しばしば茶頭を務めています。
【松井友閑・基本データ】
生没 | 不詳 |
官位 | 宮内卿法印/正四位下 |
庵号 | 徳庵(とくあん) |
主君 | 足利義晴⇒足利義輝⇒織田信長 |
兄弟 | 松井正之(まさゆき)、友閑、松井新三郎(しんざぶろう)、松井民部卿(みんぶきょう)、松井少将(しょうしょう) |
子女 | 松井宗徳(むねのり) |
【松井友閑・略系図】
松井宗富-松井長之-松井友閑-松井宗徳
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【松井友閑・略年表】
- 生年不詳 松井長之の次男として京都・松井城で誕生
- 年代不詳 室町幕府の第12代将軍・足利義晴に仕える
- 天文15年(1547年) 足利義晴が将軍職を辞し、第13代・足利義輝に仕える
- 永禄8年(1565年) 永禄の変(将軍・足利義輝暗殺)によって京都を離れ、織田信長に仕える
- 永禄11年(1568年) 信長上洛後、織田家の右筆となる。京都・堺の豪商らに茶器を供出させた
- 天正2年(1574年) 相国寺の茶会で茶頭を務める。同年、信長が東大寺正倉院から蘭奢待を拝受した際の奉行も務めた
- 天正3年(1575年) 堺の代官となり、豪商の津田宗及らと親交。同年に宮内卿法印の官職と正四位下の位を授かる
※その後も、石山本願寺との和睦交渉や謀叛を起こした松永久秀や荒木村重の説得など、外交方面に奔走した - 天正10年(1582年) 本能寺の変に際しては、堺で徳川家康を歓待している。その後は羽柴秀吉に取り立てられ、従前の通り堺の代官として権勢を振るう
- 天正14年(1586年) 何かの不正を働いたかどで罷免され、消息不明に
- 文禄2年(1593年) 史料上における最後の生存確認
【参考文献】
- 竹本千鶴『人物叢書 新装版 松井友閑』吉川弘文館、2018年8月
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