令和4年(2022年)NHK大河ドラマ「鎌倉殿の13人(脚本:三谷幸喜)」はそろそろ源頼朝(演:大泉洋)公の挙兵を目前に迎え、一視聴者としてワクワクが止まりません。
さて、主人公の北条義時(演:小栗旬)らに側近く仕えている仁田忠常(にった/にたん ただつね)、今回はティモンディの高岸宏行さんが熱演しています。
劇中ではあまり主張せず、いつも朗らかに笑っている印象の忠常。しかし彼は頼朝公の挙兵をはじめ、数々の合戦で武勲を重ねた闘将です。
頼朝公はこのような武士たちによって担ぎ上げられて「鎌倉殿」となり、ついには天下草創の大業を果たし得た……そんな一人の生涯をたどってみたいと思います。
頼朝公の挙兵以来、数々の武勲を立てる
仁田忠常は現代の静岡県函南町に当たる伊豆国仁田郷の豪族で、仁安2年(1167年)に生まれました。
しかしその出自や父母は不詳で、藤原南家の流れをくむなど諸説あります。また苗字の「にった」は史料によって「新田」「日田」など様々です。
通称は四郎(しろう)。弟の仁田五郎忠正(ごろうただまさ)、仁田六郎忠時(ろくろうただとき)と共に頼朝公へ仕えました。
治承4年(1180年)に頼朝公が挙兵すると14歳でこれに参加、以来源平合戦の第一線で活躍します。
木曾義仲(演:青木崇高)を討ち、平家一門を滅ぼし……数々の武功を重ねていた文治3年(1187年)1月。忠常は病にかかり、一時は危篤状態に陥ってしまいました。
「おい四郎、しっかりせぇ!」
頼朝公は心配のあまり直々に忠常を見舞いに訪れたと言いますから、よほど頼りにされていたのでしょう。
新田四郎忠常病惱太辛苦。已欲及死門。仍二品渡御彼宅。令訪之給云々。
新田四郎忠常病惱で太(はなは)だ辛苦す。已(すで)に死門に及ばんと欲す。
※『吾妻鏡』文治3年1月大18日条
仍(よっ)て二品(にほん)彼の宅へ渡御(とぎょ)し、之(これ)を訪(とぶら)は令(し)め給ふと云々(うんぬん)。
【意訳】忠常は病いに伏せってはなはだ苦しんでおり、既に死の門をくぐろうとしていた。そこで頼朝公(二品)がお見舞いに駆けつけたそうな……。
「おい四郎、そっちに行くな。戻って来ーい!」
頼朝公が叱咤激励した甲斐あってか奇跡的に回復した忠常ですが、その身代わりになったのか、今度は忠常の妻が病床に伏せり、7月17日に亡くなってしまいました。
それでも気落ちすることなく奉公に励んだ忠常は、文治5年(1189年)の奥州征伐や建久4年(1193年)の曾我兄弟仇討ち事件でも活躍。
急ぎ現場に駆けつけた忠常は、刺客の曾我祐成(そが すけなり)を討ち取って頼朝公を守り抜きます。
まさに頼朝公の楯となって身命を惜しまぬ奉公を果たした忠常は、御家人の鑑として高く賞賛されたのでした。
弟たちの早とちりから、悲劇の最期
そんな忠常ですから、頼朝公の亡き後を継いだ源頼家(演:金子大地)からも重用されました。
忠常の娘が頼家の嫡男である一幡(いちまん)の乳母となっていることからも、信頼の篤さが分かります。
しかし頼家の舅である比企能員(演:佐藤二朗)とは仲が悪かったのか(あるいは追い落とそうと思っていたのか)、建仁3年(1203年)に勃発した比企の乱では、北条時政(演:坂東彌十郎)の命を受けて9月2日に能員を暗殺。
頼家が7月20日に急病で倒れて以来、ずっと危篤状態にあったドサクサで行われた北条氏のクーデターにより、比企一族は滅亡。
9月5日に何とか回復した頼家は北条氏の専横に憤り、忠常に対して時政の暗殺を命じます(忠常が既に北条と通じていたことは知らなかったようです)。
「ははあ」
とりあえずその場では無難に承服したものの、時政を討つつもりなどなかった忠常は、翌9月6日に時政の館へ向かいました。
「比企を討った恩賞を頂かねばのぅ」
北条邸へ入った忠常は歓迎されたようで、なかなか退出して来ません。これを忠常の下人らは
「もしかして、暗殺の密命がバレて討ち取られてしまったのでは?」
……などと早とちり。急ぎ館へ戻って弟の五郎・六郎らに告げると、彼らは慌てて報復の兵を挙げます。
しかし何の準備もないためたちまち鎮圧され、五郎は波多野小次郎忠綱(はたの こじろうただつな)に討ち取られ、六郎は自害して果てました。
そんな事とは露知らず、すっかり長居してしまった忠常はいい気分で帰宅中にこの事件を知らされます。
「何と言うことだ……かくなる上は命を捨てる(≒一戦交える)よりあるまい」
せめて一太刀報いてくれようと頼家の元へ向かう途中、挙兵以来の同志であった加藤次景廉(かとう じかげかど。加藤次=加藤の次男)に討たれてしまったのでした。
終わりに
及晩。遠州召仁田四郎忠常於名越御亭。是爲被行能員追討之賞也。而忠常參入御亭之後。雖臨昏黒。更不退出。舎人男恠此事。引彼乘馬。歸宅告事由於弟五郎六郎等。而可奉追討遠州之由。將軍家被仰合忠常事。令漏脱之間。已被罪科歟之由。彼輩加推量。忽爲果其憤。欲參江馬殿。々々々折節被候大御所。〔幕下將軍御遺跡。當時尼御臺所御坐〕仍五郎已下輩奔參發矢。江馬殿令御家人等防禦給。五郎者爲波多野次郎忠綱被梟首。六郎者於臺所放火自殺。見件烟。御家人等竸集。又忠常出名越。還私宅之刻。於途中聞之。則稱可弃命。參御所之處。爲加藤次景廉被誅畢。
※『吾妻鏡』建仁3年(1203年)9月大6日条
頼朝公の挙兵以来、まさに身命を惜しまず戦い続けた闘将・仁田忠常。弟たちの早とちりにより、謀叛人として粛清されてしまった最期は、無念と言うよりありません。
NHK大河ドラマ「鎌倉殿の13人」では忠常の最期をどのように描くのでしょうか。
この経緯をきっちり描くのか、それとも比企の乱(能員の残党討伐)で討死した扱いにするのか、あるいはうやむやにフェイドアウトさせるのかも知れません。
とは言え、まだまだ先の話ですから、今は高岸宏行さんの熱演を応援したいと思います。
※参考文献:
- 石井進『日本の歴史7 鎌倉幕府』中公文庫、2004年11月
- 木村茂光『初期鎌倉政権の政治史』同成社、2011年10月
- 坂井孝一『曽我物語の史的研究』吉川弘文館、2014年11月
- 『NHK大河ドラマ・ガイド 鎌倉殿の13人 前編』NHK出版、2022年1月
- 『NHK2022年大河ドラマ 鎌倉殿の13人 完全読本』産経新聞出版、2022年1月
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