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織田信長の正室となった「マムシの娘」濃姫(帰蝶)。実はバツ2だったその理由

戦国時代
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織田信長(おだ のぶなが)の正室として知られる濃姫(のうひめ、帰蝶)。その父親は悪辣な手口で美濃国を奪い取った「マムシの道三」こと斎藤道三(さいとう どうさん)、そのため彼女も「マムシの娘」と冷酷なイメージがつきまといます。

歴史小説や時代劇などでもそんな性格に描写されがちな濃姫。それを裏づける史料や文献はないものの、もし仮にそうであったとしても無理のない過去が彼女にはありました。

実は信長との結婚は初婚ではなく、それまで2人の夫に先立たれているのです。しかも夫を奪ったのは他ならぬ父・道三。一体何があったのでしょうか。

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政略の道具に使われる濃姫

濃姫の生年には諸説あり、ここでは『美濃国諸旧記』の天文4年(1535年)生まれ説を採用します。

当時美濃国守護代・斎藤氏の家督を奪った道三は、次なる足がかりとして濃姫を美濃国守護職の一門・土岐八郎頼香(とき はちろうよりたか)に嫁がせました。典型的な政略結婚です。

幼い濃姫にとってはおままごとの延長だったかも知れません。しかし天文13年(1544年)、道三は頼香を自刃に追い込みます。10歳で夫を奪われた濃姫が、心に深く傷を負ったのは間違いないでしょう。

土岐頼純肖像。南泉寺蔵

しかしその傷もまだ癒えぬ天文15年(1546年)、今度は頼香の兄で美濃国守護職の土岐次郎頼純(じろうよりずみ。甥との説もあり)に嫁がされました。とんでもない父親ですね。

嫌な予感しかしない……と思ったかはともかく、翌天文16年(1547年)に頼純が急死。これもお察しの通り、道三による暗殺とみられています。

13歳で早くもバツ2となってしまった濃姫。父・道三にとって娘は政略(嫁がせた相手を油断させ、隙をみて粛清するため)の道具に過ぎず、さすがマムシの異名は伊達じゃありません。

相次ぐ伴侶の死に傷つき果てたであろう濃姫に、三度目の縁談が舞い込むのはそれから間もなく。そして天文18年(1549年)2月24日、尾張国の「うつけ」こと信長に嫁いだ濃姫は、

(どうせこの人も、すぐ父に殺されるのだろうな)

などと思っていたことでしょう。それじゃ愛情を注いでも後で傷つくだけですから、つい冷淡な態度をとってしまったものと思われます。

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終わりに

しかし、信長は殺されるどころか逆に道三亡き後の美濃国を併呑。天下布武を唱えて覇業を推し進めたのは広く知られるところです。

本能寺の変で、愛する?信長を守り戦う濃姫。揚洲延一筆

濃姫は三度目の正直で信長と添い遂げることが出来たものの、その最期には諸説あって早くに亡くなったとも、本能寺の変(天正10・1582年6月2日)で夫と共に討死したとも言われています。

最も信頼がおけるとされる史料『信長公記(側近・太田牛一による伝記)』でも輿入れ(結婚)に関する短い記述があるのみで、後は伝承の域を出ません。

濃姫(帰蝶)の高い人気はこうした謎の多さにも由来するのでしょうか。果たして信長との結婚生活が幸せだったのかどうかなど、今後の究明が俟たれます。

※参考文献:

  • 岡田正人『織田信長総合辞典』雄山閣出版、1999年9月
  • 和田裕弘『信長公記―戦国覇者の一級史料』中公新書、2018年10月

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