NHK大河ドラマ「どうする家康」、皆さんも楽しみにしていますか?
筆者も毎回楽しみにしていますが、そう言えば大事なことを忘れていました。徳川家康(演:松本潤)の側室って、その後どうなったのでしょうか。
第10回放送「側室をどうする!」では、お葉(演:北香那)こと西郡局(にしのこおりのつぼね)が衝撃のLGBT発言によって側室計画が頓挫してしまいました。
※ちなみに、西郡局が同性愛者であったとする史料や文献は現時点で確認されておらず、大河ドラマの創作とみられます。
彼女が女の子を一人(後の督姫)産んだまではいいのですが、それだけで側室問題は解決しません。
その後、家康は「側室をどうする!」のでしょうか。
大河ドラマに登場する“お万”と“於愛の方”
実際の家康は確認できるだけで20名ほどの側室を抱えており、隠し子や落胤説まで含めて十数名もの子供をもうけました。
さすがに大河ドラマに全員登場させる訳には行きませんが、公式サイトを見ると、お万(演:松井玲奈)と於愛の方(演:広瀬アリス)は登場が確定しているようです。
家康の心に入り込む神秘的な女
お万 おまん
[松井玲奈 まついれな]
池鯉鮒神社神主の娘。戦災を逃れ、瀬名仕えの侍女となり、やがて浜松城で暮らす家康のそばに仕えることになる。神秘的で妖艶な魅力が漂い、武田信玄との激戦で疲れた家康の心の隙間に入り込む。
※NHK大河ドラマ「どうする家康」公式サイトより
激動期の家康を支えた二代将軍・秀忠の母
於愛の方 おあいのかた
[広瀬アリス ひろせありす]
笛を吹くのが趣味だが、いつも音程がずれる。そのユーモラスな行動が、周囲に癒しを与える。ガマンが続いていた家康の心に明かりを灯す、愛深き姫。実は夫を戦乱で亡くし、幼子を連れて側室となった苦労人。
※NHK大河ドラマ「どうする家康」公式サイトより
お万は家康の次男・結城秀康(ゆうき ひでやす)、於愛の方は三男の徳川秀忠(ひでただ)と四男の松平忠吉(まつだいら ただよし)をそれぞれ生みました。
(※)養子入りした秀康はともかく、同じ兄弟で苗字が徳川・松平と違うのは「徳川は本家(および後に御三家)のみ」で、その他の一族はみんな松平でした。
今回は江戸幕府の公式記録『徳川実紀(東照宮御実紀)』より秀康・秀忠・忠吉の誕生場面と両生母の生涯をざっくりたどりたいと思います。
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家康に愛されなかった?お万と次男・結城秀康
……二月八日次郎君生れた(ま)ふ。後に越前中納言秀康卿といへるは是なり。……
※『東照宮御実紀』巻二 元亀三年-天正二年「秀康生」
時は天正2年(1574年)2月8日、お万が家康の次男となる次郎を生みました。
しかし正室の瀬名(演:有村架純。築山殿)が自分の侍女であったお万を側室と認めなかったため、妊娠が発覚した時点で城外へ追放されてしまいます。
生まれた子供の幼名は於義丸(おぎまる。ほか於義伊など)。最初は築山殿を恐れて認知すらしなかった家康が、せがまれて仕方なく名づけたそうです。
理由は「顔がギギ(義々魚、ナマズの一種でギィギィ音を出す)に似ているから」とのことで、よほど可愛くなかったんでしょうね。
「生まれた子供に罪はないだろうに、だったら元から手を出すなよ」と言いたいところですが、この於義丸は天正12年(1584年)に羽柴秀吉(演:ムロツヨシ)の養子に出され、秀康と改名。
後に名門・結城晴朝(ゆうき はるとも)に養子入りして結城秀康となり、越前北ノ庄(福井県福井市)68万石に封じられます。
お万も秀康と共に越前北ノ庄へ移住し、慶長12年(1607年)に秀康が急死すると出家。長勝院と称しました。
そして元和5年(1620年)に北ノ庄で亡くなったそうです。享年73歳。
ざっくりたどってみる限り、あまり家康からは愛されていなかった印象を受けます。
怖い?築山殿が処刑された後も連れ戻されていませんし「いなくなってせいせいした」などと思われていたのでしょうか。
もっと詳しく知りたい方は:
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家康や皆から愛された於愛の方こと西郷局
……七年の卯月七日に浜松の城にしては三郎君生れたまふ。是ぞ後に天下の御ゆづりをうけつがせ給ひし 台徳院太政大臣の御事なり。御母君は西郷の局と申。さしつづき翌年この腹にまた四郎君生れ給ふ。是薩摩中将忠吉卿とぞ申き。……
※『東照宮御実紀』巻三 天正六年-同七年「天正七年秀忠生」
一方で於愛の方こと西郷局(さいごうのつぼね)は、家康から愛されていたことが察せられます。
西郷局は先に西郷義勝(よしかつ)へ嫁いで一男一女を設けるも、元亀2年(1571年)の対武田戦(竹広合戦)で討死してしまいました。
天正6年(1578年)に家康の側室となり、翌天正7年(1579年)4月7日に三男の徳川秀忠を生みます。
いわゆる「築山殿事件」によって瀬名と徳川信康(演:細田佳中太)が処刑されたのは、秀忠が生まれた直後となる8月~9月。
もしかして家康は「秀忠に家督を継がせたくなったから、邪魔な瀬名と信康は始末してしまおう。『織田の命令で泣く泣く』ということなら、世の非難も集まるまい」などと思っていたのでしょうか。
真相はさておき、翌天正8年(1580年)には四男となる松平忠吉が誕生。家康の寵愛はますます深まったようです。
美人で気立てもよかったため、家康はもちろんみんなから愛されていた西郷局。誰にでも優しい中で特に盲目の女性に同情、積極的な施しを行ったため人望に篤かったと言います。
天正17年(1589年)に38歳で亡くなった時(29歳説もあり)は、多くの者がその死を悼んだということです。
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終わりに
以上、家康の側室2名について紹介してきました。
あまり愛されなかった印象のお万に対して、みんなから愛された於愛の方。実に対照的な二人が、どのように物語を彩ってくれるのでしょうか。
登場は少し先になりそうですが、今から彼女たちの活躍を楽しみにしています!
※参考文献:
- 『徳川実紀 第壹編』国立国会図書館デジタルコレクション
- 黒田基樹『家康の正妻 築山殿 悲劇の生涯をたどる 』平凡社、2022年10月
- 日本歴史学会 編『徳川秀忠』吉川弘文館、2020年2月
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