NHK大河ドラマ「鎌倉殿の13人」で國村隼が好演した相模国の実力者・大庭景親(おおば かげちか)。
伊豆で挙兵した源頼朝(演:大泉洋)の行く手を阻み、石橋山の合戦でこれを撃破。あと一歩のところまで追い詰めながら逆転され、ついには処刑されてしまいました。
それでも上総介広常(演:佐藤浩市)をして「どっちが敗軍の将か分からない」と言わせしめた立派な最期は、多くの歴史ファンを感動させたことでしょう(筆者もその一人です)。
さて、今回は神奈川県藤沢市にある大庭城址公園を訪問。ここはかつて大庭景親も住んだと伝わる場所で、往時の英雄たちを偲ぶひとときとなりました。
大庭城主?大庭景親の生涯を振り返る
その前に、大庭景親について略歴など紹介。
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大庭景親は相模国の中央部に広がる大庭御厨(おおばのみくりや)を治める鎌倉一族の棟梁・大庭景宗(かげむね)の子として生まれました。
保元の乱(保元元・1156年)では源氏の棟梁である源義朝(よしとも)に従って上洛、兄の大庭景義(かげよし)と共に武勇を奮います。
続く平治の乱(平治元・1159年~永暦元・1160年)では義朝と決別して平清盛(演:松平健)に接近。義朝の敗死後、東国の後見(支配者)に指名されて坂東に大きな影響力を及ぼしました。
以来20年にわたる全盛期を経て、平家討伐の兵を挙げた頼朝と対決。治承4年(1180年)10月26日に処刑されたのは、大河ドラマでも言及されていた通り。
挙兵当初から頼朝に従った(景親と決別した)兄の景義らは鎌倉一族の命脈をつなぎます。
大庭城はそんな景親らの居館であったと伝わるものの、室町時代の『玉隠和尚語録(ぎょくいんおしょうごろく)』によれば大庭館は城跡よりも少し南にある宗賢院(そうけんいん)の辺りにあったとか。
しかし、当時は平時に住む館と有事に立て籠もる城砦が必ずしも一緒ではなかったため、景親らも有事にはこちらに移って防戦した可能性も十分に考えられます。
さっそく大庭城内を散策
さて、大庭城址公園に入るとさっそく立派な石垣が出迎えてくれますが、これは公園整備のために造られたもの。
戦国時代以前の城郭は、その多くが自然の地形を活かして土塁や柵などで囲んだだけの簡素なものでした。
園内はそのほとんどが市民の憩いを重視したつくりとなっており、時おり案内板や「からぼり(空堀)」と刻まれた石碑などがなければ城址と分からないでしょう。
とは言え、非常に地味ではあるものの空堀はがっつり深く掘られており、攻め上がるのは非常に困難であったはずです。
攻め上がってくる敵を三方から射るのにはちょうどよいが、鉄砲の射程距離には少し短すぎるため、鉄砲が普及する戦国時代後期より前の築城と推測されます。
また城郭との関係は未解明ながら掘立柱の跡も発見されており、もしかしたら景親もここで一息ついていたのかも知れません。
自然の中に広々としたスペースやアスレチック、休憩できる四阿(あづまや)などが配されており、子供の遊び場や犬の散歩コースとして親しまれています。
園内には300本以上の桜(ソメイヨシノ等)やウメ・ツツジ・バラ・アジサイなど四季折々の花が植
えられた花見スポットとしても有名です。
そんな片隅(南の端)にたたずんでいた、一対の石碑と石祠(どなた=神様を祀っているかは不明)。ここがあくまでも史跡なのだと訴えているようにも感じられました。
【大庭城蹟】
此地大庭景親ノ居城ト云フ後上杉定正修メテ居城セシガ永正九年子朝長ノ時北條早雲ニ攻落サレ、是ヨリ北條氏ノ持城トナツタ廃城ノ年代未詳空塹ノ蹟等當代城郭ノ制ヲ見ルニ足ルモノガアル
昭和七年九月 神奈川縣
【意訳】この地は大庭景親の居城と言う。室町時代に入って上杉定正(うえすぎ さだまさ)が改修、永正9年(1512年)にその子の上杉朝長(ともなが)が北条早雲(ほうじょう そううん。伊勢盛時)によって奪われる。以来、北条氏の支配下におかれた。廃止された年代は未詳ながら、空堀の跡など当時の城づくりを知る上で一見の価値がある。
また『新編相模国風土記稿』にもほとんど同じ内容が書かれていました。こちらでは築城の名手として知られた太田道灌(おおた どうかん)が登場。
「(前略)土人傳て大庭三郎景親が居城なり。後太田道灌暫時居城とし、北條氏の頃はその旗下某在城せりと云う。(中略)修理大夫朝良の時、永正九年北條早雲に攻落さる。是より北條氏の持城となる。」
※『新編相模国風土記稿』大庭城蹟
※朝良は「ともなが」と読みます。
伝承の真偽については今後の調査研究が俟たれるものの、地元の人々が郷土の英雄である大庭景親を敬愛してきたことが偲ばれます。
終わりに
大庭城陥落と同じ永正9年(1512年)に北条早雲が鎌倉に玉縄城(たまなわじょう)を築くと戦略的価値が低下。北条氏の滅亡後、江戸時代の一国一城令が発せられるかそれまでに廃止されたということです。
それから300年以上の歳月が流れた昭和42年(1967年)、藤沢市が大庭城址の発掘調査を開始。当初は手がかりを発見できず、単なる伝承に過ぎないと思われたものの、翌年の第2次調査で城郭の遺構や往時の遺物を発見。
令和3年(2021年)12月1日には大庭城が藤沢市指定史跡となり、半世紀以上の歳月で第25次調査まで実施。さまざまな発見が報告されています。
神奈川県内には48の城跡が存在する中で国指定史跡は2か所(小田原城、石垣山城)、県指定史跡も2か所(綾瀬市の早川城、山北町の河村城)、市町村指定史跡は3か所(大庭城ほか横浜市の茅ケ崎城、横須賀市の衣笠城)。
今後の調査発見しだいでは神奈川県史ひいては日本史に大きな影響が確認されるかも知れませんね。
神奈川県内にまだまだたくさんある未踏破の城跡たちも、機会を得てぜひ“攻略”したいものです。
※参考文献:
- 西股総生ら『図説 日本の城郭シリーズ1 神奈川中世城郭図鑑』戎光祥出版、2015年4月
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