◆駿河屋市右衛門/高橋克実
するがや・いちえもん/たかはし・かつみ吉原を代表する引手茶屋の主、そして蔦重の育ての“親”
吉原の引手茶屋(客に女郎を紹介する案内所)“駿河屋”の主。両親に捨てられた、幼い蔦重(横浜流星)を養子にして育てあげた。蔦重の商売に対する姿勢と才覚には一目置いている。※NHK大河ドラマ「べらぼう~蔦重栄華乃夢噺~」公式サイトより。
第1回放送「ありがた山の寒がらす」から登場し、蔦屋重三郎(横浜流星)を叩き上げで育てている養父の駿河屋市右衛門(するがや いちゑもん)。
厳しく荒っぽい忘八ですが、どこか愛情も感じられる人物として描かれています。
昭和の父感がただよう市右衛門は、果たして何者なのでしょうか。
そんな疑問に応えるべく、今回は駿河屋市右衛門について調べた限りを紹介。大河ドラマ鑑賞の参考になれば幸いです。
蔦屋重三郎は捨て子じゃなかった?
劇中では捨て子という設定になっていた蔦屋重三郎。しかし実際には喜多川氏(屋号は蔦屋)へ養子に出されており、成長後に再会した両親を迎え入れていることから、親子関係は良好だったと見てよいでしょう。
養子というより、丁稚奉公のような感覚だったのかも知れませんね。
なお蔦屋重三郎の養父について、駿河屋市右衛門という名前は見えず、また重三郎が養子入りした蔦屋についても諸説あるようです。
吉原仲之町にある茶屋「蔦屋利兵衛(りへゑ)」なのか、あるいは吉原江戸町二丁目にある「蔦屋理右衛門(りゑもん)」なのか……いずれも決定打とはなっていません。
ちなみに蔦屋重三郎の実父は尾張出身の丸山重助(まるやま じゅうすけ)、そして実母は江戸出身の広瀬津与(ひろせ つよ)と言われています。
こと母の広瀬津与が教育熱心だったらしく、幼少期から培われた素養が蔦屋重三郎を成功に導いたそうです。
果たして実の両親が今後登場する機会はあるのか、今から注目しています。
蔦屋重三郎の妻子について
せっかくの家族ついでに、蔦屋重三郎の妻子についてもふれておきましょう。
蔦屋重三郎の妻と見られる女性は俗名不詳。正法寺(東京都台東区東浅草)の過去帳に戒名が記されている錬心妙貞日義信女(れんしんみょうてい・にちぎしんにょ)という女性であると考えられています。
過去帳によると彼女は文政8年(1825年)10月11日に亡くなっており、寛政9年(1797年)に亡くなった夫を見送っているそうです。
蔦屋重三郎が彼女との間に子供を授かったかは不明。番頭の勇助(ゆうすけ)を養子にとり、二代目を継がせているため、少なくとも男児には恵まれなかった(※)のでしょう。
(※)生まれなかったか、生まれても早死したか、あるいは跡を継がせられるほど丈夫ではなかった(だから記録に残さなかった)のかも知れません。
果たして錬心妙貞日義信女はどんな役名で登場するのか、戒名がヒントになるでしょうか。
結局、駿河屋市右衛門とは?
ここまで調べて来ましたが、駿河屋市右衛門について、詳しいことは分かりませんでした。
蔦屋重三郎の養父と設定するなら蔦屋利兵衛か、蔦屋理右衛門あたりが妥当かと思いますが、制作当局に考えがあるのでしょう。
劇中では養母のふじ(市右衛門妻。飯島直子)ともども、重三郎を厳しくもしっかりと育て上げていくものと思われます。
これから蔦屋重三郎がどんな家庭を築いていくのか、楽しみに見守っていきましょう。
※参考文献:
- 『蔦屋重三郎と天明・寛政の浮世絵師たち』浮世絵太田記念美術館、1985年1月
- 松木寛『蔦屋重三郎 江戸芸術の演出者』講談社、2002年9月
- 渡邊大門『蔦屋重三郎と江戸メディア史』星海社、2024年9月
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