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悪い子はお仕置きだ!後醍醐天皇の寵愛を受けた西園寺禧子の悪戯エピソード

南北朝・室町時代
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「ハハハ、待て待て~♪」

「ウフフ、つかまえてごらんなさ~い♪」

……見ているこっちが恥ずかしくなってしまいそうな恋する二人のお約束ですが、決してこれは漫画やフィクションだけではなく、現実の、しかもやんごとなき方々も行っていたようです。

今回のヒロインは後醍醐天皇(ごだいごてんのう。第96代)の中宮・西園寺禧子(さいおんじ きし/さちこ。藤原禧子)

後醍醐天皇。Wikipediaより

朕の新儀は未来の先例たるべし(意:私が始めたことは、未来における先例≒よきお手本となろう……『梅松論』より)」のセリフに代表されるように、革新者だった後醍醐天皇に負けず劣らず自由人だった彼女は、逢いたくなったら即実行、しきたりなんて気にせず後醍醐天皇にアプローチするのでした。

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お仕事よりも、私と遊んで♪禧子のお茶目な悪戯

「……本当に、このようなことをしてしまって大丈夫なのでしょうか?」

「いいからおやりなさい」

「はい……」

御所の紫宸殿にある左近の桜(さこんのさくら)。禧子は侍女に命じて、その花枝を折らせようとしていました。

イメージ

現代人なら「何だ、そのくらい別にいいのでは」と思うかも知れませんが、古来皇室は吉例つまりよき前例を踏襲することが重んじられ、みだりにそれを外れて新儀をたくみ出すなどは不吉とされていたのです。

皇室=天皇陛下はじめ皇族がたの振る舞いは天下すなわち民の暮らしにまで大きな影響を及ぼすものであり、だからこそ桜の花枝一本折ることさえ禁忌と恐れられたのでした。

「さぁ折れた……まだ恐れているのですか。ご案じなさるな。主上(おかみ。後醍醐天皇)が日ごろきちんと政をなさっておいでなのですから、花枝一本くらいで天下が揺らぐことなどありませぬ」

ともあれ折った桜で何をするのかと言えば、花器に活けて愛でるとかではなく、後醍醐天皇をおびき出すエサに使います。さて、どうするのかと言えば……。

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「……ん?」

政務中だった後醍醐天皇の視界に入るよう、禧子は桜の枝をちらつかせたのでした。

「それは桜か……まったく、枝を折るとは悪い子じゃな?」

「ほほほ、バレてしまいましたね。捕まったらお仕置きされてしまいますから、早く逃げねばなりませぬ」

これだけ露骨にやっておいてバレたも何もないものですが、踵を返して優雅に逃げ出す禧子のお茶目さに、後醍醐天皇は政務どころじゃありません。

「こら~、待て~♪」

「きゃ~♪」

「さぁ捕まえた♪」「あれ~、お許しを~♪」

しばし政務をほっぽり出して茶番劇を繰り広げた二人は、思うさまイチャイチャしながら歌を詠み交わしました。

九重の 雲居(くもゐ)の春の 桜花(さくらばな)
秋の宮人(みやびと) いかで折るらむ

※『新千載和歌集』春下より、後醍醐天皇(116番)

【意訳】尊い場所に咲いている春の桜花を、あなたはどうして折ったのか

秋の宮とは皇后の御殿(古代中国の長秋宮に由来)、そこに住んでいる人すなわち禧子を指します。九重に重なる雲の上すなわち尊い御所に咲く春の桜を、秋の宮人が手折るところに趣が感じられます。

これだけだと「何で折ったのだ、バカモン!」と読めなくもありませんが、実際は「この悪い子さん。めっ♪」という甘ったるいノリだったことでしょう。

これに対して、禧子もこれまた甘ったるい返歌を贈ります。

手折らずば 秋の宮人 いかでかは
雲居の春の 花を見るべき

※『新千載和歌集』春下より、後京極院(117番)

【意訳】こうして手折ることがなければ、私はどのように春の花を見ればいいのでしょうか

つまり手折らなければ花が見られない……あなたは政務にかかりっきりで、私のことを構ってはくれなかったでしょう?だからこうして悪戯をして、あなたの気を惹きたかったのです……そんなメッセージが込められていました。

お楽しみの二人(イメージ)

「ねぇねぇ、お仕事はもうそのくらいにして、私と遊んで下さいな♪」

私にとって、あなたこそどんな気高い桜よりも美しく愛しい花……そんなことを言われてしまっては、後醍醐天皇もますます夢中になってしまいます。

「もう、この可w……けしからんヤツめっ。そんな悪い子さんはお仕置きだっ♪」

「きゃ~♪」

とまぁ、そんな具合だったとか。甘すぎて胸やけしないか心配ですね。

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エピローグ

かくして後醍醐天皇の寵愛を惜しみなく受けた禧子でしたが、幸せな時はいつまでも続きませんでした。

やがて元弘の乱(後醍醐天皇と鎌倉幕府の戦い)が勃発すると、二人は引き裂かれてしまいます。

「しばしの別れぞ。きっと勝利して、そなたの元へ戻るゆえ、達者でな」

「はい……」

幕府に囚われたり隠岐国(現:島根県隠岐の島)へ流されたり……過酷な後醍醐天皇の境遇を思うにつれて心労が重なり、禧子は病床に臥してしまいます。

後醍醐天皇と再会するも……(イメージ)『太平記絵巻』より

やがて苦難の末に勝利を勝ち取り、凱旋した後醍醐天皇を前にしても全快することはありませんでした。

迷うべき 後の憂き身を 思(おもう)にも
つらき契(ちぎり)は 此世のみかは

※『続千載和歌集』恋二より(1231番)

【意訳】来世も苦しいことがたくさんあるのでしょうが、大丈夫。あなたとの絆はこの世限りではないのだから……

何度生まれ変わろうと、何があろうと、必ずあなたと巡り合って乗り越えてみせる。そんな強い意志に、よほど愛情深かったことが察せられます。

かくして元弘3年(1333年)10月12日、禧子は30歳前後の若さで世を崩御。後醍醐天皇の落胆ぶりは激しく、後にこんな哀悼歌を詠みました。

徒(あだ)に散る 花を思(おもい)の 種として
この世にとめぬ 心なりけり

※『新葉和歌集』哀傷より(1332番)

【意訳】どれほど愛しく思っても、無情に散ってしまう桜の花は、その儚さゆえに美しいのであろうが、独り遺されてしまった私は、ただこの世が憂いばかりだ……

かつて禧子が「あなたこそ私の花」と言ってくれたように、後醍醐天皇にとっても禧子こそかけがえのない花だったことが偲ばれます。

いつまでも、お幸せに(イメージ)

あれから何度生まれ変わったかは分かりませんが、きっとどこかで二人仲良く花を愛でていることでしょう。

※参考文献:

  • 呉座勇一 編『南朝研究の最前線 ここまでわかった「建武政権」から後南朝まで』洋泉社、2016年7月
  • 兵藤裕己『後醍醐天皇』 岩波新書、2018年4月

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