虎退治と聞いて、多くの方は加藤清正(かとう きよまさ)を連想するかと思いますが、実際に虎を退治したのは彼ではなく、黒田長政(くろだ ながまさ)主従と言われています。
※もしかしたら、清正の幼名が虎之介(とらのすけ)であったこと、そして虎のような猛々しさが虎退治のイメージを定着させたのかも知れません。
他にも朝鮮で虎退治の武名を高めた者がおり、今回は江戸時代の武士道バイブルとして知られる『葉隠(はがくれ。葉隠聞書)』から、片田江金左衛門(かただえ きんざゑもん)のエピソードを紹介したいと思います。
数万の軍勢が見守る中……
片田江金左衛門は肥前国(現:佐賀県)の大名・龍造寺家晴(りゅうぞうじ いえはる。諫早鍋島家)の家臣で、朝鮮出兵に際しては龍造寺の家来筋である鍋島直茂(なべしま なおしげ)・鍋島勝茂(かつしげ)父子に預けられたようです。
その鍋島直茂は第一次出兵・文禄の役(天正20・1592年4月~文禄2・1593年7月)において加藤清正が率いる二番隊に配属され、意気揚々と日本海を渡ります。
現地での滞陣中、一頭の猛虎が出現。その迫力を前に数万人もの軍勢は怯んでしまい、ただ遠巻きに見ているばかりのところへ、ただ一人で進み出たのが片田江金左衛門。
「参る!」
金左衛門は刀を引側(ひきそば)め、刺突の構えをとりながら突進。虎も猛然と向かってきました。
「「「おお……っ!」」」
両者は互いにタイミングを掴もうと、駆け抜けながらすれ違い、また向き合ってすれ違ってを繰り返し、互いの隙を狙います。
「あぁ、惜しい!」
なかなか好機が訪れないまま、金左衛門と虎の格闘はどれほど続いたのでしょうか。
数万の軍勢が固唾を呑んで見守る中、このままでは埒が明かない……肚を括った金左衛門は、決死の覚悟で虎の懐に飛び込み、見事に虎の首を叩き落としたのでした。
「「「やったぁ!」」」
数万の軍勢は金左衛門の勝利に喝采を上げました。しかし虎も「ただでは死なぬ」とばかりに残った力を振り絞って金左衛門に爪を一撃、その身体を真っ二つに叩き割ります。
「「「ああっ!」」」
かくして金左衛門は虎と相討ちとなり、戦場の露と消えてしまったのですが、その武勇を称えた鍋島勝茂によって遺児に知行が与えられたということです。
清正も感動!興奮のあまり鍔を叩いて指を切る
一七 片田江金左衛門猛虎と討死の事 高麗御陣の時、虎狩あり。猛虎一疋出で、岩を木立に取り威を振ひ控へ居り候。近附く者なし。金左衛門刀引きそばめ、数万の中より唯一人進み出で、虎に向ひ飛びちがへ、走せ合はせ、暫くたゝかひ候が、虎の首に刀を突き立て、やがて首を掻き落し候時、虎怒つて金左衛門を二つに引きさき申し候。諸軍感動、時を移し申し候。加藤主計殿、「あれゝゝ。」と覚えず鍔をたゝかれ候に付、十の指より血出で候由なり。金左衛門は諫早家中なり。勝茂公、子供に御知行下され候なり。
金左衛門孫、惠了長老なり。※『葉隠』第九巻より
この格闘を観戦していた加藤清正は興奮のあまり刀の鍔(つば)をたたいてしまったため、指を切ってしまったそうですが、鯉口が緩んでいて刀身(刃)が出てでもいたのでしょうか。
あと、十の指ということは両手で鍔を叩いたことになりますが、交互にドラミングしてしまったのか、あるいは緊張のため両手を握り込んだのか、この辺りもよく判らないものの、だからこそ現場の切迫した空気が伝わりますね。
しかし、確かに凄いのは間違いないものの、戦さに来ていて虎と相討ちになっても本懐を遂げられる(少なくとも勝利に資する)ものではなく、ここは無難に追い払っておいた方がよかったように思えなくもありません。
※参考文献:
- 古川哲史ら校訂『葉隠 下』岩波文庫、2011年12月
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