藤原道長(みちなが)の正室として、夫の政を公私にわたり支え続けた源倫子(りんし/みちこ/ともこ)。
『栄花物語』によると、おだやかでおっとりとした女性だったようです。また辛いときでも気丈に振る舞える芯の強さも持ち合わせていました。
とても魅力的な女性として映る倫子ですが、時にはちょっと意地悪な一面も持ち合わせていたらしいことが『紫式部日記』に伝わっています。
意地悪のターゲットは紫式部(むらさきしきぶ)。倫子の娘である藤原彰子(しょうし/あきこ)に仕える女房です。
果たして倫子は紫式部にどんな意地悪をして、紫式部はそれにどう対処したのでしょうか。
倫子から”素敵”な贈り物
時は寛弘5年(1008年)9月9日、その日は重陽の節句でした。
重陽(ちょうよう)の節句は菊の節句とも言われ、冬を前に菊の薬効を活かして心身を健康に保つイベントが行われます。
「みな様お楽しそうで、結構なこと……」
盛り上がる会場の片隅で、一人ぽつねんとしていた紫式部。空気を読めない訳ではないのですが、むしろ空気が読め過ぎて疲れてしまうから、人付き合いが苦手な彼女でした。
そんな紫式部のもとに、兵部(ひょうぶ)のおもとという女性がやってきます。彼女は倫子に仕える女房の一人です。
「もし。式部さま」
「はい。何でしょうか?」
「北の方(倫子)様が、これを式部さまへお贈りするようにと仰いまして……」
兵部のおもとが差し出したのは、菊の着せ綿。今朝の露にしっとりと濡れて、ほのかに菊の香りが立ち上っています。
菊の着せ綿とは、菊の花に綿を乗せておいて、朝露に湿らせたもの。朝露には菊の香りが含まれており、これで身体をぬぐうと若返ると言われました。
「まぁ。こんな素敵なものを、ありがとうございます」
綿は当時貴重なものだったので、倫子の心遣いを喜んだ紫式部。ですが……。
兵部のおもと「北の方様は『これでお身体の老いをよ~く拭いとって下さいね』と仰っていました」
え?
いま貴女、何と仰いましたか?老いですって?
ほぅ……そういうことですか。つまり私(紫式部)をババアだと仰りたいのですね?
察しのよい紫式部ですから、彼女のこめかみには青筋が立ったかも知れません。
と言うかそもそも、倫子様って私(紫式部)より年上でしたよね?
※源倫子は康保元年(964年)生まれ、紫式部は諸説あるが天禄元年(970年)ごろ生まれです。
あンの野郎……こっちが言い返せない身分格差をいいことに……これはまさにパワハラと言えるのではないでしょうか。
「貴女様こそ若返りが必要なのではなくて?」紫式部の反撃
しかし仮に真っ向から問い詰めたところで、こんな反論が目に見えています。
倫子「え~、何言っているんですか?私そんな意地悪のつもりで菊綿を贈ったんじゃないのに~!若い時からのエイジングケアは大事ですよね?せっかくのおすそ分けをそんな邪推するなんてひど~い!」
倫理の取巻きA「そーよそーよ!式部さんったら、ちょっと穿(うが)ち過ぎ~!」
同じく取巻きB「人の好意をそんな風に曲解するなんて、性格悪いんじゃないの~?」
……まぁ賢明な紫式部がそんな暴挙に出るはずもないのですが、かと言ってこのまま何も言い返さないのも、あまりに癪が過ぎるというもの。
とげとげしい悪意は、美しく善意に包んで贈るのが、王朝文化のお約束。そこで紫式部はこんな和歌を詠みました。
菊の露 若ゆばかりに 袖ふれて
花のあるじに 千代は譲らむ【意訳】菊綿の露は袖がふれる程度にほんの少しだけいただければ十分です。花のように美しい貴女様が、いつまでもお美しくあるように残りはお返しいたします。
※『紫式部日記』より
要するに菊綿をただ突き返すだけではなく「貴女様が若さと美しさを保てるように、この菊綿の露は貴女様こそお使い下さいませ」というメッセージを添えたのでした。
と言うのは表向きの話。紫式部の真意はこうに決まってますよね。
【真意】私はまだまだ若いですから、若返りの化粧水はお気持ち程度いただければ十分です。完全に突き返すのも失礼ですからね。むしろ貴女様の方こそ、たっぷりたっぷり、たぁ~っぷりと必要なのではなくって?
……こうしてみると、たっぷり毒の効いたメッセージになりました。
言うまでもなく、仮に悪意を責められても、とぼけ通せるレベルにとどめてあります。
この絶妙なさじ加減こそが、紫式部の才知であり腹黒さと言えるでしょう。
さぁてこの和歌をあの野郎、もとい倫子様に……と思ったら、既に彼女は退席しまったようです。
(……わざわざ追いかけて和歌を届けるなんて、そんなはしたないことは出来ないから、反撃は諦めよう……)
強烈な皮肉を美しい善意で包み隠した一首は、披露する機会のないままお蔵入りとなったのでした。
今回は倫子の勝ち?
……九日、菊の綿を、兵部のおもとの持て来て、「これ、殿の上の、とりわきて。いとよう老のごひ捨てたまへと、のたまはせつる」とあれば、菊の露 わかゆばかりに 袖ふれて 花のあるじに 千代はゆづらむとて、かへしたてまつらむとするほどに、「あなたに帰り渡らせたまひぬ」とあれば、ようなさにとどめつ。……
※『紫式部日記』寛弘5年(1008年)9月9日条
かくして倫子からヒット&アウェイ(一撃離脱)をかまされてしまった紫式部。
後日「あの時はよくも……もといありがとうございました」なんて野暮なやりとりは出来ません。
なので残念ながら今回は紫式部の黒星(負け)と言えるでしょう。何と戦っているんでしょうね。
今回の件に限らず、表向きはあくまで主従の美しい絆に見える?水面下のバトルが、あちこちで繰り広げられていたようです。
平安貴族たちの陰湿な世界を垣間見るには、絶好のテキストと言えるのではないでしょうか。
終わりに・大河ドラマでも再現して欲しい?
NHK大河ドラマ「光る君へ」では、身分の格差はありながらも親友のように振舞ってきたまひろ(紫式部)と倫子。
今回のエピソードは是非とも演じて欲しいところです。
また解釈や演出についても、どのようなアレンジが加わるのか楽しみにしています。
藤原道長をめぐる三角関係(実際には三角どころじゃない)がどのようにこじれていくのか、あるいは絶妙に収まっていくのか……これこらも目が離せませんね。
※参考文献:
- 藤岡忠美ら校註『新編 日本古典文学全集26 和泉式部日記 紫式部日記 更級日記 讃岐典侍日記』小学館、1994年9月
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