文治5年(1189年)閏4月30日、奥州衣川で非業の最期を遂げたとされる源義経(みなもとの よしつね)。
その死が多くの人々に惜しまれたあまり、中には「実は死んでない」説を提唱する声も少なくありません。
義経は身代わりを立てて、自分は蝦夷地(北海道)へ渡ったのだ、いやもっとその先の大陸へ……。
義経伝説の極めつけが、モンゴル帝国の覇者チンギス・ハーン(ジンギスカン。成吉思汗)になったとするもの。
小さな日本では収まりきらない英雄が、ユーラシア大陸狭しと大暴れしたと思うと、胸が熱くなりますね!
……もちろん史料などの裏づけがないため、学術的には否定されています。それでも義経とジンギスカンにはいくつかの共通点があるとか。
今回はそんな両者の共通点を紹介。果たしてこれは偶然なのでしょうか。それとも?
義経=ジンギスカン説を最初に唱えたのはシーボルト
実は義経は衣川で自害しておらず、蝦夷地へ渡って生き延びていた……とする説。
日本では江戸時代、徳川家光(とくがわ いえみつ)の編纂させた歴史書『本朝通鑑(ほんちょうつがん。寛文10・1670年成立)』に俗説としてこんな記述があります。
俗伝又曰。衣河之役義経不死逃到蝦夷島存其遺種
【意訳】俗説によれば、義経は衣川で死んでおらず、蝦夷島へ逃げてその血脈を残した。
最初のうちはあくまで「義経は北海道へ逃げた」というところにとどまっていました。それが次第に満洲・韃靼へと足をのばし、天明3年(1783年)の『国学忘貝』などでは義経が女真族(騎馬民族)の祖となり、その子孫が金・清王朝を興したとか。
義経がモンゴルに到達した?のは江戸幕末期。来日した神聖ローマ帝国(現ドイツ)の医師シーボルトが、その著書『日本』で義経とジンギスカンの共通点から両者が同一人物であると主張しました。
明治時代に入って末松謙澄(すえまつ けんちょう)が「The Identity of the Great Conqueror Genghis Khan with the Japanese Hero Yoshitsune(大征服者ジンギスカンは日本の英雄である源義経と同一人物である)」という論文を発表。
これを内田弥八(うちだ やはち)が翻訳して明治18年(1885年)に『義経再興記』を出版します。
更には大正13年(1924年)に小谷部全一郎(おやべ ぜんいちろう)が北海道・樺太・モンゴルへ渡って現地取材した結果をまとめた著作『成吉思汗ハ源義経也』を出版し、大人気となったとか。
※これらに対する反論もありますが、ここでは割愛します。
平泉から北上して蝦夷・樺太・そして大陸へ……時代が下るにつれてスケールを大きくしていく義経伝説。夢があっていいですね!
義経とジンギスカンの共通点を比較
さて、そんな義経とジンギスカンの共通点をいくつかピックアップしていきましょう。
源義経 | ジンギスカン | |
生年 | 平治元年(1159年) | 大定2年(1162年)ごろ |
体格 | 身長150センチくらい | 堂々たる体躯ながら、意外に小柄 |
習慣 | 酒は呑まず、茶を好んだ | 左に同じ |
九の数字 | 通称は九郎 | 九の数字を好んだ |
白旗 | 源氏の白旗 | 即位に際して九本の白旗を立てた |
……など。中にはどうなのかと思われる説(笹竜胆紋など)もあるものの、とても興味深いですね。
成吉思汗の表記に隠された義経のメッセージ?
また共通点とは少し違いますが、ジンギスカンの漢字表記である「成吉思汗」には、義経のメッセージが隠されているとか。
源義経という名前を音読みすると「ゲンギケイ」。成吉思汗はモンゴル語で「ジンギスカン」。モンゴル語では「ジ」と「ギ」の音が似通っていると言います。
つまり源義経を音読みした「ゲンギケイ」をモンゴル語に変換したのが「ジンギスカン」とのこと。
よく考えたものですが、もう一つ紹介しましょう。
※史料による裏づけはなく、高木彬光の推理小説『成吉思汗の秘密』が出典と思われます。
しづやしづ しづのおだまき くりかえし
昔を今に なすよしもがな【意訳】九郎様が私を「静や、静」と何度も呼んで、愛情をかけてくれた昔に時を戻せたら。
※『吾妻鏡』文治2年(1186年)4月8日条
これは義経の愛妾として有名な静御前(しずかごぜん)の詠んだ歌。この「なすよしもがな(なすすべがあったなら)」という部分に注目します。
「成吉思汗」と「なすよしもがな」を並べてみると……
成=なす
吉=よし
思=も(おもう)
汗=がな(かん≒がん)
静御前に対して「私もあなたを思い続けている」というメッセージになるのだとか。
また、成吉思汗を漢文風に読み下すと「吉(よきこと)を成して汗を思う」となります。
汗を思うって何だ?と思ったら、この汗という字を分解すると「汗=水(さんずい)+干」で水干(すいかん)と読めるでしょう。
水干とは男性装束ですが男装で演舞する白拍子の象徴でもあるため、白拍子であった「静御前を思う」という意味に。
「モンゴル統一の覇業をなした今、遠く日本の貴女を思う」
史料による裏づけはないものの、もしそうだとしたらとてもロマンチックですね。
終わりに
以上、義経=ジンギスカン説についていろいろと紹介してきました。
個人的には「さすがにモンゴルまでは行ってないでしょ」とは思いながら、「蝦夷地へ逃げるくらいなら、見逃してくれてもいいんじゃないか」と思っています。
さすがにジンギスカンと入れ替わってしまうと、彼の残虐非道な振る舞いに至るまですべて義経の所業とされてしまい、そんな事なら「衣川で死んでいてくれた方がよかった」なんて言われてしまいかねません。
でも、歴史上の人物や事績をテーマに色々と考えてみるのは楽しいですよね。特に成吉思汗に隠されたメッセージは、感心させられました。
これからも日本史に興味をもって、色々調べて紹介したいと思います!
※参考文献:
- 上横手雅敬『源義経 流浪の勇者 京都・鎌倉・平泉』文英堂、2004年9月
- 高木浩明『知れば知るほど面白い 義経新詳解事典 人物歴史丸ごとガイド』学研、2004年10月
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