NHK大河ドラマ「鎌倉殿の13人」、皆さんも観てますか?
小栗旬さん演じる主人公の北条義時(ほうじょう よしとき。江間小四郎)の息子「俺たちの泰時」こと北条泰時(やすとき。江間太郎)坂口健太郎さんの好演が人気を呼んでいますね。
劇中では何か一人息子のような感じで描かれていますが、実は他にも息子がいました。
何なら第31回放送「諦めの悪い男」時点で泰時には弟が3人生まれているものの、ストーリーの都合ではしょられているようです。
もしかしたら、これから登場してくれるかも知れないので、その予習として今回は北条義時の息子たちを紹介。
登場した場合のキャスティングが誰になるのか、予想してみるのも楽しいですよ!
義時の次男・北条朝時(ともとき)
建久4年(1193年)生~寛元3年(1245年)没
母親は姫の前、大河ドラマでは比奈(演:堀田真由)と呼ばれている彼女です。正室の子なので最初は嫡男=跡継ぎ候補でしたが、母の実家である比企一族が滅ぼされたため、格下げとなってしまいます。
女性問題でスキャンダルを起こし、一時謹慎していたものの、和田の乱(建暦3・1213年)で呼び戻されて活躍。御家人として復帰しました。
承久の乱(承久3・1221年)でも活躍、元仁元年(1224年)に父・義時が亡くなると在京の兄・泰時に代わって葬儀を執り行います。
義時の後継者争い「伊賀氏の変」を経て泰時が家督を継承すると次第に鎌倉幕政から遠ざかり(兄との確執・暗闘があったと言われる)、やがて泰時と共に出家。ほどなく世を去ったのでした。
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義時の三男・北条重時(しげとき)
建久9年(1198年)生~弘長元年(1261年)没
母親は姫の前。前述の事情から物心ついた時に母と別れ、不遇な少年時代を過ごしたと言われています。
承久元年(1219年)に小侍所(こさむらいどころ。将軍の警護機関)別当となり、寛喜2年(1230年)より上洛して六波羅探題北方を17年間にわたって勤めました。
宝治元年(1247年)に三浦一族が滅亡すると(宝治合戦)、時の執権・北条時頼(ときより。第5代)から要請を受けて鎌倉へ戻り、連署(れんしょ。副執権)として時頼を補佐します。
建長8年(1256年)に出家、極楽寺で隠居。同年に時頼も病で出家したため、重時の子・北条長時(ながとき)が第6代執権に就任しました。
信心深い性格で、弘長元年(1261年)に亡くなった時には「万事を抛(なげう)ちて一心に念仏し、正念に住して終を取る(意:ひたすら念仏を唱え続け、迷いなく最期を遂げた)」ということです。
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義時の四男・北条有時(ありとき)
正治2年(1200年)生~文永7年(1270年)没
母親は伊佐朝政(いさ ともまさ)の娘。四男だけど通称は六郎。これは母親の身分によるもので、父・義時の葬儀では弟たちよりも格下扱いでした。
承久の乱に際しては長兄・泰時に従って活躍。その後は鎌倉殿の近習や鶴岡八幡宮の奉幣使などを務めます。
仁治2年(1241年)に評定衆(ひょうじょうしゅう。鎌倉幕府の合議制メンバー)に抜擢されるも、あまり政治的意欲がなかったのか、間もなく病を理由に引退。
その後、生涯にわたって出仕することはありませんでした。
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義時の五男・北条政村(まさむら)
元久2年(1205年)生~文永10年(1273年)没
母親は義時の後室(正室)となった伊賀の方(いがのかた、伊賀氏)。
前室「姫の前」が義時と離縁するきっかけとなった比企の乱が建仁3年(1203年)、政村が元久2年(1205年)生まれですから、伊賀の方を迎えたのは元久元年(1204年。建仁4年)以前。
前妻と離婚してから再婚まで随分と早いですが、あるいはあらかじめ目星をつけていたのかも知れませんね(例えば、本当は側室に迎えようと思っていたけど、比企の乱によって正室の座が空いたからそのまま迎えた等)。
ちなみに誕生日は6月22日、その日はちょうど畠山重忠(演:中川大志)と畠山重保(しげやす)父子が粛清された日であり、何かの運命を感じてしまいますね。
建保元年(1213年)に7歳で元服、祖父の北条時政(演:坂東彌十郎)と烏帽子親となった三浦義村(演:山本耕史)から一文字ずつもらって政村と改名しました。
この年は和田義盛(演:横田栄司)と北条氏が全面衝突、和田一族の滅亡した和田合戦が勃発しており、和田の本家である三浦一族を懐柔する意図があったと言われます。
父・義時からは大層可愛がられ、嫡男として家督を継承する予定でしたが、義時が亡くなると母が謀叛の容疑によって伊豆国へ流罪にされてしまいました(伊賀氏の変)。
政村は兄・泰時が保護したため罰せられなかったものの、この事件は伊賀(政村擁立)派を潰すために尼御台・政子(演:小池栄子)が仕組んだ陰謀との説もあります。
助けられた政村は兄・泰時を補佐して評定衆・連署そして60歳の時に第7代執権に就任。曾姪孫(そうてっそん。甥の孫)に当たる北条時宗(ときむね)が成長するまでの中継ぎを果たしました。
若き時宗を補佐・育成してきた政村は、文永5年(1268年)にモンゴル帝国(元王朝)より国書が届くと、国難を前に権力の一本化を図って執権職を時宗に譲ります。
そして元軍が襲来する前年、69歳で亡くなったのでした。大敵の撃退を時宗に託して世を去るのは、何とも忍びなかったかも知れません。
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義時の六男・北条実泰(さねやす)
承元2年(1208年)生~弘長3年(1263年)没
母親は正室・伊賀の方。または一条実有(いちじょう さねあり)の娘との説もあるとのこと(『明月記』による)。
建保2年(1214年)に元服した際、将軍・源実朝(演:柿澤勇人)が烏帽子親となり、父と一文字ずつもらって北条実義(さねよし)と改名しました。
父が亡くなった跡目争い「伊賀氏の変」では長兄の泰時に守られたためお咎めなし。父の遺領として武蔵国六浦荘(演:横浜市金沢区)を与えられます。
また、この頃に泰時から一文字をもらって北条実泰と再び改名。これは義時の後継者となることを諦め、泰時に忠誠を誓う意味があったとの説も。
じっさい忠義を尽くして順調に出世した実泰でしたが、精神に異常を来していたのか天福2年(1234年)6月26日、誤って自分の腹を掻き切ってしまいます。
……去廿六日朝、義時朝臣五郎男実有卿実一腹、誤突切腹度々絶入、或狂気自害之聞云々、當時験者祈之、又有小怪異妖言等云々、竊以此一門年々毎六月有事、匪直也事歟、
※『明月記』天福2年(1234年)7月12日条
人々は発狂しての自害と噂し、また修験者に祈祷させたところ、さまざまな異変が起こったり妖言を口走ったりしたそうです。
「この一家は、毎年6月に何かが起こる……」
『明月記』を書いた藤原定家(ふじわらの ていか)はそんなことをぼやいたと言います。
間もなく実泰は出家して家督を嫡男の北条実時(さねとき。当時11歳)に譲り、政治の表舞台から姿を消したのでした。
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終わりに
以上、義時の息子たちについて紹介して来たのをまとめてみます。
- 長男:北条泰時
母親は阿波局(大河ドラマでは八重)、第3代執権、御成敗式目の制定など大活躍。俺たちの泰時。 - 次男:北条朝時
母親は姫の前(大河ドラマでは比奈)、元は嫡男だが比企の乱で格下げ、また女性スキャンダルも。 - 三男:北条重時
母親は姫の前、不遇な少年時代、熱心な仏教徒。第5代執権・北条時頼を補佐。第6代執権・北条長時の父。 - 四男:北条有時
母親は伊佐朝政の娘。側室の子なので四男だけど通称は六郎(末っ子扱い)。若くして出家・引退。 - 五男:北条政村
母親は伊賀の方(後の正室)。泰時との後継者争い(伊賀氏の変)に敗れるが助けられ、後に第7代執権として北条時宗を補佐する。 - 六男:北条実泰
母親は伊賀の方(一条実有の娘との説もあり)。助けてくれた泰時に忠義を尽くすが精神に異常を来して自殺未遂。若くして出家・引退。
こうして見ると有時だけが側室の子。兄弟たちに挟まれて、さぞ肩身の狭い思いをしていたことと思われます。
それにしても、義時は源氏一族の跡目争いを目の当たりにしておきながら、どうして自分の家についてはちゃんと後継者を決めておかなかったのでしょうか。
ともあれ、大河ドラマ「鎌倉殿の13人」では彼らが登場するのかどうか、これからも注目していきましょう。
※参考文献:
- 菊池紳一 監修『鎌倉北条氏人名辞典』勉誠出版、2019年10月
- 田中大喜 編『図説 鎌倉幕府』戎光祥出版、2021年5月
- 野口実 編『図説 鎌倉北条氏』戎光祥出版、2021年9月
- 藤原定家『明月記 第三』国書刊行会、1912年2月
- 細川重男『執権 北条氏と鎌倉幕府』講談社、2019年10月
- 安田元久『鎌倉・室町人名事典 コンパクト版』新人物往来社、1990年9月
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