「いつまでも、あなたたちを草葉の陰から見守っていますからね……」
もうすっかり死語かも知れませんが、大切な者を遺して逝かねばならない未練を表わす言葉として、この「草葉の陰」とは実にしみじみと味わい深いものです。
一方、遺された者が堕落したり、悪行三昧だったりすると「お母さんが、草葉の陰で泣いているぞ!」などとも言いますね。
とかく死というものは現世と隔絶されてしまう(であろう)ものですから、逝く者も残る者も、互いの未練は尋常ならざるもの。
だから「いつまでも見守っているから、寂しがらないで欲しい」「いつまでも見守ってくれているから、心配かけないよう元気に生きねばならない」という思いが様々な物語を生み出してきました。
今回はそんな一つ、神奈川県の三浦半島に伝わる小桜姫(こざくらひめ)の伝承を紹介。その聖地を取材してきた報告をしたいと思います。
相模の戦国大名・三浦荒次郎に嫁ぐ
戦国時代の文亀3年(1503年)、相模国の大部分を支配していた戦国大名・三浦荒次郎義光(みうら あらじろうよしみつ※)の元へ、一人の女性が嫁ぎました。
(※)史料では三浦荒次郎義意(よしおき)。もしかしたら「よしおき」が「よしあき」に聞き間違えられ、そこへ義光(例:最上義光)の漢字が当てられたのを、更に「よしみつ」と読んだのかも知れません。
彼女こそは小桜姫。鎌倉の出身で、父は鎌倉府(室町幕府の出先機関)に仕えていた大江廣信(おおえの ひろのぶ)、母は加納袈裟代(かのう けさよ)とのこと。
これらの名前は『相州兵乱記(そうしゅうへいらんき)』や『北条五代記(ほうじょうごだいき)』といった史料にその名が見えませんが、ここでは史料に照らして辻褄を合わせていきます。
当時、20歳の小桜姫に対して荒次郎はまだ8歳。一回りも年齢が違う姐さん女房で、典型的な政略結婚だったのでしょう。
ちなみに史料に言及されている荒次郎の正室は房総半島の大名・真里谷信勝(まりやつ のぶかつ)の娘とされているので、側室だった(しかも、子供がいなかったので記録されなかった)可能性があります。
その後、永正7年(1510年)ごろに荒次郎は元服して父・三浦道寸(どうすん)から家督を継承。いよいよこれからという時になって、西の方から暗雲が立ち込めます。
謀略をもって小田原城(現:小田原市)を奪取し、急速に勢力を伸ばしていた伊勢宗瑞(いせ そうずい。後世の北条早雲)の侵略を受け、次第に三浦半島へ追い詰められていきました。
「おのれ……かくなる上は、三浦の意地を見せてくれるわ!」
永正10年(1513年)、荒次郎は最後の拠点である荒井城(現:三浦市)に立て籠もり、小桜姫をはじめ女子供は城外へ逃がします。
「あなた、どうかご武運を……!」
籠城戦は実に3年間にも及び、荒次郎たちは奮闘して伊勢宗瑞の軍勢をよく防ぎました。しかし永正13年(1516年)にとうとう陥落してしまいました。
うつ(討つ)ものも 討たるる者も かはらけ(土器)よ くだけて後は もとのつちくれ(土塊)
※『北条五代記』より、三浦道寸の辞世【意訳】
戦に勝とうが負けようが、死ねば土に還るのは同じじゃないか。
(覚えておくがいい。今日の勝ちに驕るお前たちにも、必ず死が訪れることを!)
伝承によれば荒次郎は最後の一人になるまで戦ってから自ら首を刎ねたところ、その首級は何と小田原まで飛んで行って松の木の枝を咥えて放さず、ついには伊勢宗瑞を呪い殺したとも言われています。
「あぁ、あなた……!」
燃え盛る荒井城と、その眼下に広がる海がべったりと血に染まる様子(※油を貯めた壺のようだったことから、この地を油壺と呼ぶようになりました)を見て、小桜姫は伊勢宗瑞への復讐を誓いました。
「おのれ……この怨み、晴らさでおくべきか……っ!」
追手から逃れて一年間ほど潜伏し、三浦の残党と共に捲土重来の機会を狙い続けた小桜姫でしたが、慣れない逃亡生活で身体を壊してしまいます。
「姫や、今さら仇を討ったとて、婿殿は喜ばれるだろうか。それよりも鎌倉へ帰って療養し、菩提を弔うのがよかろう」
そんな両親の願いも辞退して、小桜姫は永正14年(1517)に夫の後を追いました。享年34歳。
死後、女神となって三浦の民を大津波から救う
しかし話はこれで終わりではなく、夫と死に別れてからも三浦の地を離れなかった小桜姫は貞女の鑑として称えられ、彼女の墓には献花や線香が絶えなかったそうです。
それから永い歳月を経たある時、関東から東海地方一帯を大嵐が襲いました。
「姫様、どうか三浦の地をお救い下さいまし……」
必死で祈りを奉げるのは地元に住む漁師の女房。その姿に心を打たれた小桜姫の神霊は、自分にその霊験はないものの見捨てておけず、龍神様に懇願します。
「どうか、三浦の民にお慈悲を垂れて下さいませ」
無私なる願いに胸を打たれた龍神様は小桜姫の願いを聞き入れて三浦半島を守護。その結果、房総半島や伊豆半島には甚大な被害が出たものの、三浦半島だけは被害が少なくて済んだということです。
「流石は姫様、亡くなった後も、わしらをお守り下さったのじゃ!」
漁師の女房から話を聞いた三浦の人々はますます小桜姫を信仰。小桜姫が夫の最期を見届けた荒井城の対岸・諸磯(もろいそ)の地に神社を建てて小桜姫をご祭神に祀り、小桜姫が潜伏の末に亡くなった城ヶ島の洞窟に観音様をお祀りしたのでした。
それが今日で言う諸磯神明社(もろいそしんめいしゃ。その境内社)と、城ヶ島にある小桜観音(こざくらかんのん)であると言われています。
いざ、小桜姫の聖地(小桜観音、諸磯神明社)へ
……以上が小桜姫にまつわるざっくりとした伝承となります。
史料の裏づけがないので史実とは断じられないものの、少なくともこの伝承を元に地域おこしなども行われており、一笑に付してしまうのはあまりに味気ないもの。
そこで取材のため、小桜姫ゆかりの地である城ヶ島の小桜観音と諸磯神明社に参拝してきました。
まずは城ヶ島の小桜観音から。
城ヶ島灯台のふもと、波風にえぐられた岩崖を背負うように赤い鳥居が立っており、その奥に観音像らしき仏様が鎮座しています(奥まで入るのは流石に遠慮しました)。
周囲には波濤に朽ちかけた石灯籠やコンクリートの土台などが散在し、確かにここで神仏をお祀りしていた、その意思を感じることが出来ます。
観音様の真正面には相模湾の向こうに雲の衣をまとった霊峰・富士山が優雅な姿で向き合い、小桜姫もその美しさを愛でたのでしょうか。
正面の海には風と波に削られた岩筋が、龍の背筋を思わせるように何本も伸び、小桜姫が龍神様にお慈悲を願った伝承を彷彿とさせます。
惜しむらくは由緒書きなどが設置されていない点で、ここがそうした伝承の地であることを案内できれば、より多くの方が興味関心を持ってくれるかも知れません。
(実際、目の前で遊んでいた海水浴客はここに仏様が鎮座していることに気づいていない様子でした)
続いて諸磯神明社(浜の神明様、三浦市諸磯1872)にお参り。
正面の社殿に向かって左脇、小さなお社が二つある右側が「若宮神社(わかみやじんじゃ。通称:小桜姫神社)」。
小桜姫をお祀りしているそうで(一番左側はお稲荷様)、社頭にパンフレットを入れた箱があったので、いただいてきました。
ここにも由緒書きはなく、またお社の屋根から天に伸びる千木(ちぎ)が男性神を示す外削ぎ(そとそぎ)になっているのが少し気になります(鰹木は女神の偶数ですが……)。
小桜姫は女性の筈なのに、神になったら性別が変わるなんてことがあるのでしょうか(そういう事例は、寡聞にして知りませんが)……?
これは果たしてどういうことなのか、諸磯神明社の管理元である白山神社(はくさんじんじゃ。菊名の権現様、三浦市南下浦町菊名149)の宮司様にお話を伺うことが出来ました。
史実の可能性は限りなく低いが……
「あれは八幡神社(はちまんじんじゃ)です」
宮司様は、ハッキリとそう言いました。
「それでは、社頭のパンフレットにあった『若宮神社』というのは?」
「まったくのフィクションです」
……お話しによれば、小桜姫伝説の元ネタは明治時代に村井弦斎(むらい げんさい)というジャーナリストが書いた新聞の連載小説『椿の御所(※正しくは桜の御所)』。
それを昭和になってスピリチュアリスト(心霊主義運動家)の浅野和三郎(あさの わさぶろう)が「妻に小桜姫の霊が乗り移り、語ったことを書き記した」という『小桜姫物語 例会通信』を世に出して一躍有名になり、あの場所が聖地にされたとのこと。
確かに、八幡神(誉田別命、応神天皇)であれば男神ですから、千木が外削ぎなのも理に適っています。
「しかし、もしそうであればフィクションを書いた(しかも末尾に大きく三浦市、と書いて行政の公認であるかのような)パンフレットを放置しておくのはなぜでしょうか?」
「確かにその通りなんですが、彼ら(そういう団体があるそうです)にも信仰の自由があるから、ということで、置いてあるんですよ」
個人的には「いくら信仰の自由だろうが、自分たちの私有地でもない場所へ勝手にパンフレットを置いて、フィクションを広めることを黙認するべきではない」と思います。さりとて当局が黙認しているならば、それ以上とやかく言う筋合いではないかも知れません。
(もしかしたら、小桜姫伝説で町おこしを推進する団体と何かもめた可能性もありますが、これ以上深入りすべきではなさそうです)
一方、小桜観音の洞窟については問い合わせ先が分からないため謎のままとなっています。
とは言え小桜姫伝説が史実であろうとなかろうと、人々の心の中に彼女が生き続けていて、それが地域活性化の原動力となっている。
そういうことであれば、それはそれで受け入れる心の余裕があってもいいのではないでしょうか。
※参考文献:
上杉孝良『三浦一族 その興亡の歴史』横須賀市、2007年3月
浅野和三郎『小桜姫物語』ゴマブックス、2016年7月
村井弦斎『桜廼御所』春陽堂、1894年12月
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