永禄6年(1563年)から同7年(1564年)にかけて三河国じゅうで一向門徒(浄土真宗本願寺派)が蜂起した三河一向一揆。
信仰の力はすさまじく、鎮圧に当たろうとした徳川家中の約半分が一揆側に寝返ってしまったと言うから、影響力の大きさが分かります。
しかし寝返った中でも主君への忠義を忘れてはおらず、信仰と忠義の板挟みになっていた者も少なくありませんでした。
今回はそんな一人・土屋長吉重治(つちや ちょうきち しげはる)を紹介。果たして彼はどちらを選んだのでしょうか。
窮地に陥った家康を救う
時は永禄7年(1564年)1月11日。昨年から続く一向門徒との激闘が、ここ上和田でも繰り広げられていました。
「おい、援軍はまだか!」
上和田の砦を守備していたのは大久保忠勝(おおくぼ ただかつ)と大久保忠世(演:小手伸也)たち。
善戦して敵を防いでいたものの、いかんせん多勢に無勢。このままでは押し切られてしまいます。
「うるせぇ、よそも一杯々々なんだ!我らだけで何とか持ち堪えるぞ!」
と気力を振り絞ってはみたものの、やはり限界寸前。このまま敵の手に陥落してしまうのか……その時です。
「おい、あれは?!」
城外を見れば、何と我らが主君・徳川家康(演:松本潤)がたった一人で駆けつけたではありませんか。
「「「御屋形様!?」」」
「皆の者、無事か!」
どこも兵を回す余裕がないから、家康自身が駆けつけたとのこと。
そこまでして我らを助けようと……ここで主君を討たせては三河武士の名折れというもの。
「者共、御屋形様をお救いするのじゃ、開門!」
大久保忠勝・大久保忠世の両将は既に負傷していたものの、痛みなど吹っ飛んでしまいました。
「急げ、御屋形様に指一本触れさせるな!」
しかし見る間に包囲されていく家康。単騎奮闘しているものの、このままでは間に合いません。
「御屋形様……っ!」
その時です。家康を包囲していた敵の中で、突如騒ぎが起こりました。
「長吉!」
見ると一度は一向一揆に寝返った土屋長吉重治が、家康の窮地を見るに忍びず再びこちらへ寝返ったようです。
「阿弥陀様への信仰は変わらないが、やはり御屋形様の窮地を見捨てては三河武士の名折れ。たとえ地獄へ堕ちようと、わしは御屋形様をお助け申す!」
なら最初から裏切るな……と言いたいところですが、そこは相当な葛藤があったのでしょう。
「いざ参れ!誰ぞ冥途の供をせよ!」
たとえ神仏を敵に回そうと、主君を奉じてこその武士。地獄だろうがどこだろうが、力の限り突き進むまで……迷いの晴れた長吉は、悔いなく死んで行きました。
「「御屋形様、よかったご無事で!」」
やがて上和田の者たちが合流し、家康は一命を取り留めたということです。
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終わりに
……正月十一日上和田の戦に賊徒多勢にて攻来り。味方難儀に及ぶよし聞しめし。御みづから単騎にて馳出で救はせ給ふ。その時賊勢盛にして殆危急に見えければ。賊徒の中に土屋長吉重治といふ者。われ宗門に与すといへども、正しく王の危難を見て救はざらんは本意にあらず。よし地獄に陥るとも何かいとはんとて。鋒を倒にして賊徒に陣に向て戦死す……
※『東照宮御実紀付録』巻二「土屋重治見家康危急内応」
以上、三河一向一揆(上和田砦の戦い)における土屋長吉重治の最期を紹介しました。
武士が最後に選ぶべきは信仰か忠義か……窮地の家康を見て忠義と確信した長吉の最期は、今も人々の胸を打ちます。
ところで『寛政重修諸家譜』では、土屋”惣兵衛”重治は最初から家康に忠義を貫いたそうです(討死する点は同じ)。
●重治
※『寛政重脩諸家譜』巻第五百四十九 平氏(良文流)土屋
惣兵衛 今の呈譜、惣兵衛のち甚助重次に作る。母は某氏。
東照宮につかへたてまつり、永禄六年一向専修の乱に、重治父子岡崎に候し賊兵と戦ふ。七年正月十一日針崎の賊徒上和田の砦を急に攻撃、大久保五郎右衛門忠勝同七郎右衛門忠世等奮戦して疵を蒙り、すでに上和田の砦危くみえしとき、重治及び筒井甚六郎某等をはじめ十騎斗岡崎城より助け来る。忠勝等これに力を得て木戸を開て突戦し、終に賊徒を針崎野までおひしりぞく。このときまた賊徒十六七騎駈加はりて挑み戦ふ。重治これがために討死す。年四十五。法名桂厳。
果たしてNHK大河ドラマ「どうする家康」には登場するのか、するなら誰がキャスティングされるのかなど、今から楽しみにしています。
※参考文献:
- 『寛政重脩諸家譜 第三輯』国立国会図書館デジタルコレクション
- 『徳川実紀 第壹編』国立国会図書館デジタルコレクション
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