NHK大河ドラマ「どうする家康」、皆さんも楽しみにしていますか?
徳川家康(演:松本潤)から溺愛され、花に囲まれながら幸せに暮らすヒロイン・瀬名(演:有村架純、築山殿)。
しかし嫡男・徳川信康(演:細田佳央太)の成長を頼もしく見守る中、家康一家を災いが襲います。
時に天正7年(1579年)8月29日に瀬名が自刃し、同年9月25日には信康が切腹に追い込まれたのです。
後世に伝わる「築山殿事件」、二人を死に至らしめたのは他ならぬ家康でした。
なぜこんな事になってしまったのか、今回は江戸幕府の公式記録『徳川実紀(東照宮御実紀)』を紐解いて行きましょう。
武田勝頼の策謀にハマった?築山殿の処刑
……当家北條と隣好をむすび給ふと聞て大におどろき。さきむぜざれば吾亡ぶる事近きにあらんとて。さまざま謀略をめぐらしける事ありし中に。築山殿と申けるはいまだ駿河におはしける時より。年頃定まらせたまふ北方なりしが。かの勝頼が詐謀にやかゝりたまひけん。よからぬことありて。八月二十九日小藪村といふ所にてうしなはれ賜ひぬ。(野中三五郎重政といへる士に。女の事なればはからひ方も有べきを心をさなくも討取しかと仰せければ。重政大におそれ是より蟄居したりとその家傳に見ゆ。これによればふかき思召ありての事なりけん。是れを村越茂助直吉とも。又は岡本平右衛門石川太郎右衛門の両人なりとしるせし書もあれど。そはあやまりなるべし。)……
※『東照宮御實紀』巻三 天正七年-同八年「築山夫人自害」
なぜ瀬名は自刃に追い込まれたのでしょうか。
実は武田勝頼(演:眞栄田郷敦)の調略によって陥れられた、あるいは内通したためと見られています。
「お義母様(瀬名)が我が夫(信康)を唆して、武田と内通しております!」
五徳姫(演:久保史緒里)の密告を受けた織田信長(演:岡田准一)は娘の話しを信じてこれを酒井忠次(演:大森南朋)に確認。
特にこれと言った擁護もなかったため、家康に信康ともども処刑を命じたのです。
第13回放送「家康、都へゆく」では早くも「父上(信長)に言いつける」と家康を脅していた五徳姫。その密告で夫と姑を死に追いやったのでした。
実際に瀬名を斬り捨てた(自刃を介錯した)のは野中三五郎重政(のなか さんごろう しげまさ)。
後に「女だから手心を加える(こっそり出家させるなど、命だけは助ける)べきであろうに」等と非難され、蟄居(謹慎処分)を命じられたと言います。
まったく生かせば生かしたで罰したでしょうに、いい迷惑ですね。
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「それがしが代わりに腹を!」平岩親吉の懇願も虚しく
……信康君もこれに連座せられて。九月十五日二俣の城にて御腹めさる。是皆織田右府の仰によるところとぞ聞えし。(平岩七之助親吉はこの若君の御傳なりしかば。若君罪蒙りたまふと聞て大におどろき浜松へはせ参り。これみな讒者のいたす所なりといへども。よしや若殿よからぬ御行状あるにもせよ。そは某が年頃輔導の道を失へる罪なれば。某が首を刎て織田殿へ見せ給はゞ。信長公もなどかうけひき給はざるべき。とくとくそれがしが頸をめさるべく候と申けるに。 君聞しめして。三郎が武田にかたらはれ謀反すといふを実とは思はぬなり。去ながら我今乱世にあたり勍敵の中にはさまれ。たのむ所はたゞ織田殿の助を待つのみなり。今日彼援をうしなひたらんには。我家亡んこと明日を出べからず。されば我父子の恩愛のすてがたさに累代の家国亡さんは。子を愛する事を知て祖先の事をおもひ進らせぬに似たり。我かく思ひとらざらんには。などか罪なき子を失て吾つれなき命ながらへんとはすべき。又汝が首を刎て三郎がたすからんには。汝が詞にしたがふべしといへども。三郎終にのがるべき事なきゆへに。汝が首まで切て我恥をかさねんも念なし。汝が忠のほどはいつのほどにか忘るべきとて御涙にむせび給へば。親吉もかさねて申出さん詞も覚えず。なくなく御前を退り出たりといふ。是等の事をおもひあはするに。当時の情躰ははかりしるべきなり。また三郎君御勘当ありしはじめ。大久保忠世に預けられしも。深き思召有ての事なりしを。忠世心得ずやありけん。其後幸若が満仲の子美女丸を討と命ぜし時。其家人仲光我子を伐てこれに替ら志めしさまの舞を御覧じ。忠世によくこの舞を見よと仰ありし時。忠世大に恐懼せしといふ説あり。いかゞ。誠なりやしらず。)かゝることどもにはかなく年もくれて。……
※『東照宮御實紀』巻三 天正七年-同八年「信康自害」
さて、五徳姫の密告で瀬名が処刑されたら、次は信康の番です。
天正7年(1579年)9月25日に遠州二俣城で切腹した信康。腹を切るのは、武士としての名誉を守る措置でした。
切腹に際して、信康の幼少期から傅役(もりやく。教育係、補佐役)を務めていた平岩親吉(演:岡部大)は必死に懇願します。
「そりゃ若殿にも多少の落ち度はあったかも知れません。しかし若殿の落ち度は傅役たるそれがしの落ち度なれば、それがしが腹を切り申す。どうか、その首級を織田殿へ献じて下され!」
しかし家康は首を振って答えました。
「そなたが腹を切って収まるならそうしよう。しかし織田殿がそれで赦すはずもなかろう」
「そんな……」
「よいか。我が徳川家は強敵を前にし、頼るべきは織田殿の他にない。ここは我が妻子の命を差し出しても、お許しを乞うよりないのじゃ……」
「……」
「そなたの忠義は嬉しく思うが、妻子に加えてそなたまで喪う訳には参らぬ」
あまりにも非情な現実を前に、親吉は返す言葉もなく退出したということです。
愛する妻子を自ら処刑せねばならなかった家康の胸中は、察するに余りあります。
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終わりに
そんな悲劇があって、天正7年(1579年)は儚く暮れてゆくのでした。
『士談会稿』には、処刑される瀬名が放った最期の言葉が伝わっています。
我が身は女なれども汝らの主なり。三年の月日に思い知らせん
【意訳】私はおなごだが、そなたらの主ぞ。この怨み、三年の内に思い知らせてくれるわ!
※『士談会稿』より
果たしてほぼ3年後の天正10年(1582年)6月2日に信長が本能寺で横死しました。
これは瀬名の祟りだったのかも知れませんね。
※参考文献:
- 『徳川実紀 第壹編』国立国会図書館デジタルコレクション
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