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【大河ドラマ予習】武田の騎馬軍団を完全撃破!長篠の合戦を『徳川実紀』はこう伝えた【どうする家康】

戦国時代
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武田信玄(演:阿部寛)亡き後、カリスマを失いつつあった武田家は次第に傾きつつありました。

そんな劣勢を立て直すべく奮闘する武田勝頼(演:眞栄田郷敦)は、東方の遠江へ領土拡大を続ける徳川家康(演:松本潤)の背後を衝こうと三河国へ侵略の魔手を伸ばします。

武田勝頼。「長篠合戦図屏風」より

狙いを定めたのが長篠城、ここを守るのは奥平貞昌(演:白洲迅。奥平信昌)。果たして武田の猛攻を防ぎ切れるのでしょうか……。

後世に伝わる長篠の合戦、江戸幕府の公式記録『徳川実紀(東照宮御実紀)』ではどのように記されているのか、さっそく読んでいきましょう。

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<武田の大軍に包囲された長篠城>

……そのころ長篠の城は奥平九八郎に賜はりて是を守りけるに。勝頼は    当家の御家人大賀弥四郎といへる者等を密にかたらひ。岡崎を乗とらんと謀りしも。その事あらはれて大賀等皆誅せられしかば。ますゝゝいかりやむときなく。長篠城をとりかへさんと二万余騎にて取かこむ事急なりとへども。九八郎よくふせぎておとされず。……

※『東照宮御實紀』巻二 天正三年「長篠役(大戦之三)」
武田の大軍に包囲される長篠城。「長篠合戦図屏風」より

【意訳】その頃(天正3・1575年)、長篠城は奥平九八郎(貞昌。演:白洲迅)に与えて守備させていた。

いっぽう武田勝頼は大賀弥四郎(演:毎熊克哉。大岡弥四郎)を調略、徳川信康(演:細田佳央太)の守る岡崎城を乗っ取ろうと図るも計画が露見。大賀ら謀叛人はことごとく処刑された。

調略の失敗に勝頼は激怒、長篠城を攻略するため20,000騎を率いて完全包囲。それでも九八郎は善戦して守り抜く。

<家康・信長が長篠城の救援に>

……   君これをすくわせたまはんと軍を出したまへば。信長もこれをたすけて。両家の勢都合七万二千にて五月十八日   君は高松といふ所に御陣を立られ。信長は極楽寺山に陣せられしが。廿日の夜酒井忠次が手だてにより。鳶の巣山にそなへたる武田が後陣を襲はしめらる。……

※『東照宮御實紀』巻二 天正三年「長篠役(大戦之三)」
夜襲に臨む酒井忠次(イメージ)歌川芳虎筆

【意訳】家康は長篠城の救援に軍勢を派遣。信長も援軍を出し、両家あわせて72,000騎の大軍となった。

5月18日、家康は高松、信長は極楽寺山にそれぞれ布陣。20日の夜に酒井忠次(演:大森南朋)が鳶の巣山の武田勢を襲撃する。

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<酒井忠次の夜襲、武田信実(信玄弟)が討死>

……折ふし五月雨つよくふりしきりたる夜にまぎれて廣瀬川を渡り。廿一日の明仄敵寨に火をかけ焼立しに。長篠城よりも城門を押開き。九八郎城兵を具して切て出前後より捲り立れば。武田勢は散々になりて信玄が弟兵庫頭信實もうたれ。祖父山君が伏床久間山等の敵の寨ども悉く攻おとされたり。……

※『東照宮御實紀』巻二 天正三年「長篠役(大戦之三)」
夜襲をかける酒井忠次。「長篠合戦図屏風」

【意訳】折からの豪雨と夜陰に乗じて渡河し、21日の夜明け前に敵の砦へ火を放った。

これを機に長篠城の奥平勢も門を開いて出撃。不意を突かれた武田勢は惨敗、信玄の弟・武田信実(たけだ のぶざね。兵庫頭)は討死。一帯の砦はことごとく陥落したのである。

<数千挺の鉄砲で武田を迎え撃つ>

……信長は今日武田が勢共をば練雲雀の如くなすべしとて   君と謀をあわせられ。備の前に堀をうがち壘を築き柵を二重三重にかまへ。老練の輩をして鉄砲数千挺を打立しむ。……

※『東照宮御實紀』巻二 天正三年「長篠役(大戦之三)」

【意訳】信長は家康と「今日、武田の連中を練雲雀(ねりひばり。夏の換毛期で体力を消耗しているため、動きがのろく簡単に撃てる)のようにしてやろう」と語らう。

そして陣地の前に堀をうがって土塁を築き、二重三重の馬防柵を立てて熟練の者を集めて鉄砲数千挺を配備した。

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<大久保忠世・忠佐兄弟の奮起>

……血気の勝頼夜中より勢をくり出すをみて。御家人大久保七郎右衛門忠世。治右衛門忠佐兄弟。今日の軍は   当家は主戦織田方は加勢なるに。織田勢にかけおくれては我輩の恥辱此上あるべからずとかたらひ。一同に柵より外にすゝみいづ。……

※『東照宮御實紀』巻二 天正三年「長篠役(大戦之三)」
奮い立つ七郎右衛門(イメージ)

【意訳】血気盛んな武田勢を迎え撃とうと、大久保忠世(演:小手伸也)と大久保忠佐(ただすけ)兄弟は「今日は我らが主体の戦だから、(柵の内に籠って)援軍の織田勢に活躍させては名が廃る」と馬防柵の外へ出撃した。

<武田の名将たちが次々と討死>

……武田方にも。山縣昌景。小幡上総貞政。小山田兵衛信茂。典厩信豊。馬場美濃信房。その外眞田。土屋。穴山。一條等の名あるやから入かわりゝゝゝ柵を破らんと烈戦するといへども。両家の鉄砲きびしく打立て人塚を築くほど打殺せば。いさみにいさむ甲州勢も面むくべき様もなくさんゞゝにやぶられて。さしも信玄が時より名をしられたる山縣。内藤。土屋。眞田。望月。小山田。小幡など云るもの死狂ひにたゝかひて討死す。……

※『東照宮御實紀』巻二 天正三年「長篠役(大戦之三)」
「長篠合戦図屏風」より

【意訳】武田方からは山県昌景(演:橋本さとし)・小幡貞政(おばた さだまさ)・小山田信茂(おやまだ のぶしげ)・武田信豊(たけだ のぶとよ)・馬場信房(ばば のぶふさ。馬場信春)ほか真田・土屋・穴山・一条ら名立たる猛将たちが一気呵成に攻めかかる。

そこへ徳川・織田の両軍が激しく鉄砲を撃ちかけると、信玄の時代から名を知られた山県昌景・内藤昌秀(ないとう まさひで)・土屋昌続(つちや まさつぐ)・真田信綱(さなだ のぶつな)・望月信永(もちづき のぶなが)・小山田昌晟(まさあきら)などが討死。ほか塚を築くほど多数の死者が出た。

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<馬場信房の最期、勝頼を出迎える高坂昌信>

……馬場は長篠の橋際に手勢廿騎ばかりまとめて。勝頼は落て行大文字の小旗の影見ゆるまで見送りして取てかへし。一足もひかず討死す。この時高坂弾正昌信(又虎綱。)海津の城を守りてありしが。勝頼血気の勇にほこりかならず大敗せん事を察し。勢を途中に出して迎え護りて甲州まで送りかへす。……

※『東照宮御實紀』巻二 天正三年「長篠役(大戦之三)」
『新撰太閤記』より、馬場美濃守(信春)の壮絶な最期。歌川豊宣筆

【意訳】馬場信房は勝頼を落ち延びさせるため、手勢20騎ばかりをまとめて殿軍を務め、一歩も退くことなく討死して果てた。

また高坂昌信(こうさか まさのぶ。又の名を春日虎綱)は信州海津城を守備していたが、勝頼の無謀な合戦に敗北を予知し、落ち延びる勝頼を迎えて甲斐国まで護衛した。

<織田・徳川の大勝利>

……武田が家にて老功の家人どもこの戦に数を尽して討死せしかば。是より甲州の武威は大におとりしとぞ。この日両家に討取首一万三千余級。その中にも七千は   当家にて討取れしなり。又味方の戦死は両家にて六十人には過ざりしとぞ……

※『東照宮御實紀』巻二 天正三年「長篠役(大戦之三)」
討死した主君・山県昌景の首級を持ち帰る家臣の志村又左。東京国立博物館蔵「長篠合戦図屏風」より

【意訳】長篠の合戦で名将たちが多く討死したため、いらい武田家は大いに力を落としたのであった。

なお、徳川・織田の両家が上げた首級は実に13,000余り。うち7,000は徳川家のものである。対して討たれた味方は60名にも満たなかったという。

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<徳川信康の見事な采配>

……岡崎三郎君この陣中におわして父君と共に諸軍を指揮したまふさまをみて。勝頼も大に驚き。帰国の後その家人等にかたりしは。今度三河には信康といふ小冠者のしやれもの出来り。指揮進退のするどさ。成長のゝち思ひやらるゝと舌をふるひしとぞ。……

※『東照宮御實紀』巻二 天正三年「勝頼評信康」
信康の采配ぶりに驚く勝頼(イメージ)

【意訳】この時、岡崎三郎こと徳川信康が陣中で父・家康と共に諸軍の指揮をとっていたが、それを知った勝頼は大いに驚き、甲斐へ帰国後周囲に語ったという。

「今度、三河には信康という若武者が出て来た。采配は見事に鋭く、成長の後が思いやられる」と。

<長篠城を守り抜いた奥平貞昌の大殊勲>

……また奥平九八郎六町にもたらざる掻揚にこもり。数万の大軍にかこまれながら。終に一度の不覚なく後詰を待ちゑて勝軍せしは。古今稀なる大功なりと。信長より一字を授られ。これより信昌とあらためたり。(世には九八郎はじめ貞昌といひしが。此時信昌とあらたむといふ。されど貞昌は曾祖の諱なり。その家傳には定昌と書しといふ。)   君より大般若長光の刀に三千貫の所領をそへて給ふ。又信昌が妻はそのかみ武田が家へ質子としてありけるを。勝頼磔にかけし事なれば。こたび第一の姫君を(亀姫と申。)信昌にたまわり御聟となさる。これも信長のあながちにとり申されし所とぞ聞えし。……

※『東照宮御實紀』巻二 天正三年「勝頼評信康」
長篠城を守り抜いた奥平信昌。久昌院蔵

また奥平九八郎は武田の大軍に包囲されながら長篠城を守り抜いたことは古今まれなる大手柄と信長より信の字を与えられ、奥平信昌と改名した。

家康も大般若長光の太刀と3,000貫の所領を恩賞として与える。また信昌の妻は武田の人質として磔刑に処されてしまったため、このたび長女の亀姫(演:當真あみ)を嫁がせた。これも信長たっての勧めという。

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<凱旋そして祝賀会>

……信長今より我は濃州にのこりし武田が城をせめとるべければ。   君は駿遠を平均し給ふべしと約せられ帰陣あり。   君は岐阜におはしまして信長援助の労を謝したまふ。信長さまゞゝ饗せられ。是長篠軍功の御家人等へかづけものそこばく行はる。(これを長篠の戦とて大戦の三とするなり。)……

※『東照宮御實紀』巻二 天正三年「勝頼評信康」
信長もご満悦(イメージ)「長篠合戦図屏風」より

【意訳】信長は「今からわしは美濃国に残った武田の勢力を一掃するゆえ、徳川殿は駿河・遠江を攻めとられよ」と約束、帰っていった。家康は援軍のお礼を言うため岐阜へ訪れると厚くもてなされ、家臣たちにも贈り物があった。

以上が大戦の第三・長篠合戦のあらましである。

終わりに

以上、『徳川実紀』より長篠合戦をたどってきました。少し長かったですね、お疲れ様です。

長篠合戦と聞くと「武田の大軍を、少数精鋭の鉄砲隊(さすがに三段撃ちは流行らない)で逆転勝利!」……とイメージしがち。

鉄砲の前に壊滅する武田騎馬軍。「長篠合戦図屏風」より

しかし本文を読むと武田20,000に対して徳川・織田連合軍は72,000、要は普通に数の力で勝利したのでした。

逆に3倍以上の敵に挑まねばならない状況に追い込まれてしまった勝頼。多くの名臣を喪ったものの、その後天正10年(1582年)に滅ぼされるまで7年間にわたり苦闘するのですが、その話しは又の機会に紹介したいと思います。

三方ヶ原合戦(元亀3・1572年)に惨敗を喫してから3年、ようやく雪辱を果たした家康。NHK大河ドラマ「どうする家康」ではこの名場面がどう描かれるのか、今から楽しみですね。

※参考文献:

  • 『徳川実紀 第壹編』国立国会図書館デジタルコレクション

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