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【大河ドラマ予習】井伊直政が「赤鬼」と呼ばれたのはなぜ?榊原康政の抗議に酒井忠次は【どうする家康】

戦国時代
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時は天正10年(1582年)3月11日、甲斐国天目山(山梨県甲州市)に追い詰められた武田勝頼(演:眞栄田郷敦)が妻子と共に自害。甲斐源氏の名門・武田家はここに滅亡したのでした。

月岡芳年「勝頼於天目山遂討死図」

混乱を制して甲斐国はじめ武田領を手に入れた徳川家康(演:松本潤)は武田家の菩提寺である恵林寺を再建したほか、有能な武田旧臣を数多く召し抱えます。

その多くは家康が可愛がっていた子飼いの猛将・井伊直政(演:板垣李光人)に預けられ、かつて山県昌景(演:橋本さとし)が率いていた精鋭の代名詞「赤備(あかぞなえ)」を再現したことから「井伊の赤鬼」と呼ばれるようになりました。

元から「人斬り兵部」と呼ばれるほど激しい性格であったことも加わり、鬼が真っ赤に染まったようです。

ただし流石の「赤鬼」井伊直政も、妻にだけは頭が上がらなかったとか(イメージ)

直政ならば誰も文句は言うまい……と思ったら、言い出したのが榊原康政(演:杉野遥亮)。二人は親友でありながらライバルでもあったようで、あまりの悔しさに酒井忠次(演:大森南朋)の元へ文句を言いに行ったのでした。

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われと直政両人に付らるべきに……康政の抗議に、忠次は

……甲斐の一條。土屋。原。山縣が組の者共は。おほかた井伊直政が組になされ。山縣昌景が赤備いと見事にて在しとて。直政が備をみな赤色になされけり。この時酒井忠次に甲州人を召しあづけられんとおぼしめせども。それより若輩の直政を引立むが為に。かれに附属せしむと宣ひければ。忠次承り。仰の如く直政若年なれども臆せし様にも見え侍らねば。かの者共附け給はゞいよいよ勉励せんと申す。その比榊原康政。忠次が許に来り。甲州人を半づゝ引分て。われと直政両人に付らるべきに。直政にのみ預けられしは口惜くも侍るものかな。康政何とてかの若輩ものに劣るべきや。此後もし直政に出合ば指違へんと思ひ。今生の暇迄に参たりといへば。忠次さてさて御事はおこなる人哉。殿には我に預けむと宣ひしを。我勤めたてまつりて直政に附しめし■。さるを聞分ずして卒爾の挙動もあらば。   殿へ申すまでもなし。汝が妻子一族をみな串刺にしてくれんずものをと。以の外にいかり罵りけるとぞ。(武功実録。)

※『東照宮御実紀附録』巻三「井伊直政之赤備」
井伊直政の実力は認めつつ、自分も赤備を率いたかった榊原康政(イメージ)

「殿はひどい!武田の旧臣は半ばずつ分けて私と兵部の双方につけた方が絶対いいのに、兵部にみんなつけてしまって、私には彼らを率いられないと思っているのか!」

「いや、左様なことは……」

「あぁ悔しいったらありゃしない。私があの若造に劣っているとでもお思いか?次に兵部と出会ったら、アイツと刺し違えてやろうと思って、最後の暇乞いに参ったのです」

「あのな小平太。よう聞け」

「何でしょうか」

「まったく、そなたも存外に烏滸(おこ≒愚か)な者よ。殿は最初、武田の者たちをわしに預けようとなされたのじゃ。それをわしが『若輩者の兵部におつけなされ』とお勧めしたのだ」

「はぁ」

「そなたほど歴戦の勇士なれば、既に精鋭を率いていようが、あの兵部にはまだそうした者たちがおらぬ。ゆえに殿は我が進言を容れて武田の精鋭をつけてやったのじゃ」

「……左様で」

「殿にもわしにも、それなりの考えがある。もしこれ以上わめき立てるのであれば、もはや殿へ申し上げるまでもない。わしの独断でそなたの妻子や一族を串刺しにしてくれようか?」

もはやこれ以上の言葉もなく、康政は引き下がったということです。

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終わりに

赤備の精鋭を率いる井伊直政。「関ヶ原合戦図屏風」より

かくして武田の赤備を継承した直政は大いに武勲を重ね、戦場に暴れ回りました。一方の康政も負けることなく武功を連ね、共に徳川四天王の一翼を担ったのです(残る二人は酒井忠次と本多忠勝)。

NHK大河ドラマ「どうする家康」では、井伊直政がどのような経緯で赤鬼となるのでしょうか。武田の赤備を継承してくれるのか、それとも別のアレンジが描かれるのか、今から注目ですね!

※参考文献:

  • 『徳川実紀 第壹編』国立国会図書館デジタルコレクション
  • 川村真二『徳川四天王 家康に天下を取らせた男たち』PHP文庫、2014年10月
  • 菊地浩之『徳川十六将 伝説と実態』角川新書、2022年12月
  • 野中信二『徳川家康と三河家臣団』学陽書房、2022年12月

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