令和5年(2023年)4月27日(木)、NHKが令和7年(2025年)に放映する大河ドラマを発表しました。
タイトルは「べらぼう~蔦重栄華之夢噺~(つたじゅうえいがのゆめばなし)」。主演は横浜流星、脚本は森下佳子。
森下氏は「JIN-仁-」「おんな城主 直虎」「大奥」など数々の作品を手がけ、本作にも期待が寄せられています。
さて、横浜流星が演じる蔦重(つたじゅう)こと蔦屋重三郎(つたや じゅうざぶろう)とは一体どんな人物なのでしょうか。
今回はその生涯をたどり、2025年NHK大河ドラマ「べらぼう~蔦重栄華之夢噺~」の予習をしたいと思います。
吉原の小僧が”大江戸のメディア王”になるまで
蔦屋重三郎は寛延3年(1750年)1月7日、江戸の吉原遊郭に勤めていた丸山(まるやま)某の子として誕生しました。
やがて吉原で茶屋「蔦屋」を営む喜多川(きたがわ)家へ養子入り、24歳となった安永2年(1773年)に吉原大門の前に書店「耕書堂(こうしょどう)」を開業します。
それまで鱗形屋孫兵衛(うろこがたや まごべゑ)が独占していた吉原細見(よしわらさいけん。遊郭ガイドブック)の出版・販売に乗り出しました。
安永3年(1774年)に遊女評判記『一目千本(ひとめせんぼん)』、同4年(1775年)には吉原細見『籬(まがき)の花』を出版。
一目千本とは奈良吉野山の絶景スポットで「一目で千本の桜が観られる」転じて「この一冊で吉原の遊女千人の評判がわかる」という意味です。
また籬の花とは「垣根の隙間から見える花」、つまり格子の向こうにいる遊女たちへの興味が掻き立てられるタイトルとなっています。
これらのネーミングセンスだけを見ても、重三郎のすぐれた才覚がうかがわれますね。
やがて安永9年(1780年)に流行作家・朋誠堂喜三二(ほうせいどう きさんじ。平沢常富)の黄表紙を皮切りに出版事業を拡大。
以前から交友していた狂歌師・絵師らを集めてプロデュースし、洒落本(しゃれぼん。現代でいうトレンド雑誌)や狂歌本で数々のヒットを飛ばしたと言います。
34歳となった天明3年(1783年)には地本問屋の丸屋小兵衛(まるや こへゑ)から株を買い取り、一流の版元(現代でいう出版社)が立ち並ぶ日本橋通油町に進出しました。
いよいよ大手メディアの仲間入りを果たした重三郎は錦絵や浮世絵なども手がけ、喜多川歌麿(きたがわ うたまろ)・栄松斎長喜(えいしょうさい ちょうき)・東洲斎写楽(とうしゅうさい しゃらく)などを世に送り出しました。
また錦絵では鳥居清長(とりい きよなが)・渓斎英泉(けいさい えいせん)・歌川広重(うたがわ ひろしげ)などを育てています。
流行・教養・お笑い……テレビなんかない時代、彼らの送り出す出版物が八百八町の江戸庶民に娯楽を提供し、解放的な空気を醸成したことは想像に難くありません。
まさに大江戸のメディア王として自由な気風を謳歌していた重三郎たち。しかし幕府の老中が田沼意次(たぬま おきつぐ)から松平定信(まつだいら さだのぶ)に交代すると、世の風向きが一変。世にいう「寛政の改革」です。
幕府の緊縮財政を進める一環として、庶民に対しても贅沢を戒める風紀取締が厳しくなります。
寛政3年(1791年)には山東京伝(さんとう きょうでん)の『仕懸文庫』『錦の裏』『娼妓絹籭』が風紀を乱すとして摘発され、重三郎は身上(年収)の半分を過料として没収されてしまいました(山東京伝は50日間の手鎖)。
その後も写楽の役者絵など出版は続けたものの、寛政9年(1797年)に脚気で世を去ってしまいます。享年48歳。
耕書堂の二代目は番頭の勇助(ゆうすけ)が受け継ぎ、明治初期の五代目まで続いたのでした。
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終わりに
以上、蔦屋重三郎の生涯をごく駆け足でたどってきました。
大江戸のメディア王が次々にアイディアをひらめき、また埋もれた才能を発掘・発信していくバイタリティが見どころとなるでしょう。
晩年に寛政の改革で取り締まりをうけ、重三郎は挫折を味わうことでしょうが、それでも見果てぬ夢を追い続ける姿が視聴者の感動を呼ぶものと期待しています。
横浜流星が熱演する江戸っ子“蔦重”、その栄華と夢噺が今から楽しみですね!
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【2025年大河ドラマ「べらぼう~蔦重栄華之夢噺~」基本データ】
脚本:森下佳子
主演:横浜流星(蔦屋重三郎 役)
統括:藤並英樹
演出:大原拓
プロデューサー:石村将太、松田恭典
※令和5年(2023年)4月時点
※参考文献:
- 佐藤至子『江戸の出版統制 弾圧に翻弄された戯作者たち』吉川弘文館、2017年10月
- 鈴木俊幸『新版 蔦屋重三郎』平凡社ライブラリー、2012年2月
- 松木寛『蔦屋重三郎 江戸芸術の演出者』日本経済新聞出版、1988年1月
※参考:
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