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【歴人録】田沼意次の代名詞・主殿頭(とのものかみ)ってどんな役職?調べてみました!

歴史人物データベース
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田沼意次(松下奈緒)

9代・家重の小姓から出世を果たし、10代・家治の時代に老中となる。

8代・吉宗の遺志を継ぎ、大奥に蘭方医を集めて「赤面疱瘡」の撲滅へ動き出す。機知に富んだ振る舞いと鋭く時代を読んだ独自の手腕で絶大な支持を得るが、同時に様々な陰謀に左右され反発が生まれていく・・・

※NHKドラマ10「大奥」公式サイト(出演者・キャストほか)より

ついに始まりました、NHKドラマ10「大奥」シーズン2を心待ちにしていた方も多いのではないでしょうか。

松下奈緒の演じる田沼意次と言えば、日本史の教科書でもおなじみの有名人ですね。

NHKドラマ10「大奥」公式サイトより

ところで彼女は劇中において「おきつぐ」ではなく「とのものかみ」と呼ばれています。昔は相手の名前を直接呼ぶことは失礼とされていたからです。

漢字で書くと「主殿頭」。これは朝廷から与えられた官職なのですが、江戸時代ではほとんど名誉職(実際には勤務しない肩書)となっていました。

この主殿頭とは一体どんな役職なのでしょうか。今回はそれが気になったので、今回調べて紹介したいと思います。

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天皇陛下の日用品やお住まいを管理

イメージ

まず、主殿頭は朝廷に設置された主殿寮(とのもりのつかさ/とのものつかさ/しゅでんりょう)という部署の長官(かみ。一等官)でした。だから意次は「とのもの『かみ』」なんですね。

その主殿寮では内裏すなわち天皇陛下(みかど)のお住まいで使われる日用消耗品の調達や施設管理が担当されました。

宮中の清掃や儀礼設営などを担当する掃部寮(かんもりのつかさ/かもんりょう)と管轄がかぶることもあったようです。

平安時代の大同3年(808年)には官奴司(やつこのつかさ/かんぬし)を統合して、官戸や官奴婢といった官有賤民の管理も担当しました。宮中の雑用には多くの人手が必要だから、ちょうどよかったのでしょう。

そんな主殿寮は、以下の職員によって構成されていました。

  • 頭(かみ)……一等官。位階は従五位下の者が相当します。
  • 助(すけ)……二等官。位階は従六位上の者が相当します。
  • 允(じょう)……三等官。位階は従七位上の者が相当します。
  • 大属(だいさかん)……四等官の上位。位階は従八位下の者が相当します。
  • 少属(しょうさかん)……四等官の下位。位階は大初位上の者が相当します。
  • 殿部(とのもべ)……雑用のメイン作業員として雇われている者たち。
  • 使部(つかいべ)……主殿寮の内勤者たち。
  • 直丁(じきてい)……各地方から2名ずつ徴発され、1年任期で勤務した雑役夫。
  • 駆使丁(くしてい)……こちらも同じく徴発され、主に屋外勤務に従事した雑役夫。

※各自の職掌については諸説あります。

つまり意次が任じられたこの主殿頭とは、天皇陛下の日用品やお住まいなどを管理する総責任者だったのですね。

職務の実態はなかったとしても、実に名誉と感じていたことでしょう。

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終わりに

ちなみに田沼意次が主殿頭に叙せられたのは元文2年(1737年)、彼がまだ19歳の時でした。

果たして彼女は赤面疱瘡を撲滅することが出来るのか……平賀源内(鈴木杏)や青沼(村雨辰剛)、黒木(玉置玲央)たちと力を合わせていく、今後の展開が楽しみですね!

田沼意次・略年表

田沼意次(画像:Wikipedia)

せっかくなので、田沼意次の生涯を簡単にまとめておきました。NHKドラマ10「大奥」ではどの部分がピックアップされるorされたか、予習&復習のご参考まで。

享保4年(1719年)誕生(1歳)
※父は男児をさずかるよう七面大明神を信仰。意次を授かったことに感謝して家紋を「丸に一文字」から「七曜星」へ変えたといわれる。
享保20年(1735年)父・田沼意行より家督と所領600石を受け継ぐ(17歳)
元文2年(1737年)従五位下・主殿頭に叙せられる(19歳)
延享2年(1745年)徳川家重の将軍就任により出仕する(27歳)
延享4年(1747年)小姓組番頭格に昇任(29歳)
寛延元年(1748年)1,400石を加増され、2,000石に(30歳)
宝暦元年(1751年)御側御用取次側衆に異動(33歳)
宝暦5年(1755年)3,000石を加増され、5,000石に(37歳)
宝暦8年(1758年)郡上一揆の訴訟を担当、5,000石を加増され1万石の大名に(40歳)
宝暦10年(1760年)家重が隠居、徳川家治が10代将軍となる(42歳)
宝暦11年(1761年)家重が死去(43歳)
宝暦12年(1762年)5,000石を加増され、15,000石となる(44歳)
明和4年(1767年)側用人となり5,000石を加増。遠江相良藩2万石の藩主となる(49歳)
明和6年(1769年)老中格(老中に準じる)に抜擢される。5,000石加増されて25,000石に(51歳)
安永元年(1772年)老中となる。5,000石加増して30,000石に(54歳)
※老中として幕府政権を掌握した意次は、大胆な財政改革によって幕府財政の再建に着手。その剛腕ぶりを発揮するが、強引な手口に諸大名や庶民から反発が激化。賄賂の横行など政治腐敗もあって批判の声が高まっていった。
安永6年(1777年)7,000石を加増されて37,000石に(59歳)
天明元年(1781年)1万石を加増されて47,000石に(63歳)
天明4年(1784年)意次の子で若年寄を務める田沼意知が江戸城内で暗殺される(66歳)
天明5年(1785年)1万石加増。これで57,000石に(67歳)
天明6年(1786年)8月25日に家治が死去。松平定信や一橋家ら反田沼派による意次の失脚が始まる(68歳)
※8月27日に老中を更迭され、鴈間詰(かりのまづめ)に降格させられる。
※閏10月5日、所領のうち2万石を減封され、大坂の蔵屋敷財産を没収。また江戸屋敷を明け渡させられる。
天明7年(1787年)孫の龍助(後の田沼意明)に家督を譲って隠居する(69歳)
天明8年(1788年)蟄居を命じられ、改易(所領を全没収)。失意の中で世を去った(70歳)
※本拠地の相良城は破却され、備蓄していた財産も没収される。
※龍助(後の田沼意明)が陸奥国下村1万石を与えられ、田沼家は辛うじて大名として存続した。

紀州藩に仕える足軽の子だった意次が、幕府の老中として日本の舵取りを担うに至ったサクセスストーリーと晩年の凋落。その栄枯盛衰が世の無常を感じさせますね。

かつては賄賂ばかりとっていた悪徳役人のイメージでしたが、近年では再評価も進んでいる田沼意次。彼にはまだ他にもエピソードがあるので、また紹介したいと思います。

※参考文献:

  • 江上照彦『悲劇の宰相 田沼意次』ニュートンプレス、1982年4月
  • 笹山晴生 編『日本律令制の展開』吉川弘文館、2003年4月
  • 佐藤全敏『平安時代の天皇と官僚制』東京大学出版会、2008年3月
  • 関根徳男『田沼の改革 江戸時代最大の経済改革』郁朋社、1999年3月

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