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【原文】ドキュメント関ヶ原(1600/9/15)。『東照宮御実紀附録』が伝える天下分け目の決戦がコチラ【どうする家康】

戦国時代
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時は慶長5年(1600年)9月15日。天下分け目の関ヶ原合戦がついに幕を開けました。

徳川家康率いる東軍と、石田三成率いる西軍。合わせて20万を超えるとも言われる一大決戦が繰り広げられたのです。

その様子を江戸幕府の公式記録『徳川実紀(東照宮御実紀附録)』ではどのように伝えたのでしょうか。

今回は当該箇所の原文をすべて書き写したので、ぜひ御覧いただければと思います(注釈・意訳は改めてつけたいと思います)。

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「せがれ(亡き松平信康)がいれば」とぼやく家康

……十五日の朝勝山より関原へ御陣をすゝめらるゝとき。さてさて年がよりて骨の折る事よ。倅が居たらばこれほどにはあるまじ。内藤四郎左がこねば斥候に遣るべき者もなし。渥美源吾は居たらむよべとの上意にて。源吾勝吉まいりければ。敵の様見てこよと命ぜられしが。やがて馳かへり。今日の御軍かならず御勝利ならむ。早く御旗をすゝめ給へと申。先手のかたに鉄砲の音聞ゆるやと問せ給へば。誰もいまだ御答せざりしに。年頃御馬の口取にすりと字せし老人あるが。殿よ戦はすでにはじまりしと見えたり。はやく御馬を出し給へといふ。汝何を知りてかさはいふぞ。すりさきまで鉄砲の聞えしが。今やみつればさだめて鎗合になりしならむと申す。さらば鬨の声をあげよと命ぜらるれば。いかにも恰好の時節なれと申す。その折御身をもたげいさゝか飛せられ。御軽捷の様を近臣にしめし給へば。いづれもその御挙動を感嘆するに。かのすりひとりは糞がにの飛だ程にもなしと悪言はくを。とがめしも給はでほほゑませ給ひておはせしとぞ。……

※『東照宮御実紀附録』巻十「家康想信康」

血気に逸って、家臣に斬りつける家康

関ヶ原の決戦に臨んだ家康。月岡芳年筆

……又辰刻ばかりに本多三彌正重御陣に参り。敵合遠し今少し御陣をすゝめ給へといふを聞せられ。口脇の黄なるほどにていはれざる事をと宣へば。三彌御次に退き。なんぼう口脇は黄なるにもせよ。遠さは遠しといひて居りしとなり。又朝ほど霧深くして鉄砲の音烈しく聞えければ。御本陣の人々いづれもいさみすゝむで馬を乗廻しつつ。御陣もいまだ定らざるに野々村四郎右衛門某あやまりて。  君の御馬へ己が馬を乗かけしかばいからせ給ひ。御かはし引抜て切はらはせ給ふ。四郎右衛門はおどろきてはしりゆく。なほ御いかりやまで。御側に居し門奈助左衛門宗勝が指物を筒より伐せ給へどもその身にはさはらず。これ全く一時の英気を発し給ふまでにて。後日には野々村をとがめさせ給ふこともおはしまさざりしとぞ。(古人物語。落穂集。卜斎記。)

※『東照宮御実紀附録』巻十「家康欲斬野々村某」

米津正勝と小栗忠政の首級争い

……米津清右衛門正勝敵の首取来て小栗又一忠政に向ひ。我ははや高名せしといふ。忠政かねて清右衛門と中あしければ。汝が志らみ首とるならば。我は冑附の首取てみせむといふて先陣へ馳ゆく。清右衛門はかの首を御覧に入しかば。使番つとむる者は先手の様を見てはやく本陣に注進するが主役なり。首の一つや二つ取て何の用にか立とて警め給ひしなり。忠政はやがて冑付の首とり来て清右衛門に。これ見よ汝になるほどの事が我になるまじきかといひて。その首をば路傍の谷川に捨てけり。……

※『東照宮御実紀附録』巻十

大野治長、名誉回復の武功

大野治長(画像:Wikipedia)

……また大野修理亮治長は先年の事により佐竹が方に預けられしを。こたび御ゆるし得て御本陣に候せり。戦のはじめ先陣にゆきて敵の首とりて馳かへりしに。匠作これへと仰せにてその功を慰労せられ。もはや先手にすゝむに及ばずと宣ひ。岡江雪とともに御本陣にありしとぞ。この折治長が得し首は誰とも知れざりしが。後にきけば浮田が家に高知七郎左衛門といふ者なるよし聞召。さほど名ある者と志らば。我その折たしかに見て置べきにと宣へば。治長は首一つにて両度の御賞詞を蒙りしと。時の人みなうらやまぬものはなし。(落穂集。明良洪範。)……

※『東照宮御実紀附録』巻十

小早川秀秋の寝返りをうながす「問鉄炮」

……この日辰刻に軍はじまり。午の刻におよびてもいまだ勝敗分れす。やゝもすれば味方追靡けらるゝ様なり。金吾中納言秀秋かねて裏切すべき由うちうち聞えしがいまだその様も見えず。久留島孫兵衛某先手より御本陣に来り。金吾が旗色何ともうたがはし。もし異約せむもはかりがたしといへば。御けしき俄に変じ志きりに御指をかませられ。扨はせがれめに欺かれたるかとの上意にて孫兵衛に。汝は金吾が陣せし松の尾山にゆき。鉄砲を放て試みよと宣へば。孫兵衛組の同心をめしつれ山の麓より鉄砲うちかけしかば。筑前勢はじめて色めき立て麓へ下せしとぞ。(天元實記。)……

※『東照宮御実紀附録』巻十「小早川秀秋応家康」

勝利した家康、黒田長政を絶賛

黒田長政(画像:Wikipedia)

……この日の戦未刻ばかり全く御勝利に属しければ。藤川の臺に御本陣をすへられ。御頭巾を脱せられて裏白といふ一枚張の御兜をめし。青竹を柄にして美濃紙にて張し麾を持しめ兜の緒を志め給ひ。勝て兜の緒をしむるとはこの時の事なりと仰られ。首実検の式を行はる。諸将も追々御陣に馳参り。首級をさゝげて御覧に備へ御勝利を賀し奉る。一番に黒田甲斐守長政御前に参りければ。御床机をはなれ長政が傍によらせられ。今日の勝利は偏に御辺が日比の精忠による所なり。何をもてその功に報ゆべき。わが子孫の末々まで黒田が家に対し疎略あるまじとて。長政が手を取ていたゞかせ給ひ。これは当座の引出物なりとてはかせ給ひし吉光の御短刀を長政が腰にささせ給ふ。……

※『東照宮御実紀附録』巻十「家康感謝黒田長政」

福島正則に張り合おうとする本多忠勝

……本多中務大輔は御前にありて諸将へと御詞を傳ふ。福島左衛門大夫正則進謁せしかば。今日の大功左衛門大夫をはじめ。その外の者どもいづれも其働目をおどかしぬと申せば。正則忠勝が人数扱の様げに比類なしといへば。忠勝おもひの外の弱敵にて候といふ。  君中務は今にはじめぬ事よと上意あり。……

※『東照宮御実紀附録』巻十「家康感謝黒田長政」

島津の銃撃に負傷した松平忠吉(家康四男)&井伊直政

井伊直政。「関ケ原合戦図屏風」より

やがて下野守忠吉朝臣は手を負れ。布もて肘をつゝみ襟にかけて出て給ふ様を御覧じて。下野は手負ひたるかと宣へば。朝臣薄手にて候と答へ給ひながら座につかる。井伊兵部少輔直政も鉄砲疵を蒙り靭に手をかけ。忠吉朝臣に附そひ参り忠吉朝臣の勲功の様を聞えあげ。逸物の鷹の子は皆逸物なりと称誉し奉れば。そは上手の鷹匠が志ゝあてよきゆへなりと宣ひ。汝が疵はいかにとて御懸硯をめしよせ。御膏薬を取出して御みづから直政が疵に付給ふ。直政かしこみ奉りていはく。今日某が手よりこのみて軍をはじめしにあらず。全く時分よくなりしゆへ守殿と共に手始せしといへば。いたく御賞美あり。

※『東照宮御実紀附録』巻十「家康感謝黒田長政」

本多忠朝(忠勝の子)の血濡れた大太刀

其次に本多内記忠朝大太刀血にそみて。鎺元五六寸ばかり鞘にいらざるをさして御前に出るをみそなはして。忠朝若年なれども武勇のほど父祖に愧ずと宣ふ。

※『東照宮御実紀附録』巻十「家康感謝黒田長政」

織田有楽斎&織田長孝父子の武勇

織田有楽斎(画像:Wikipedia)

織田源五郎入道有楽は石田が家臣蒲生備中が首を提げ来りしかば。有楽高名めされしなと仰あり。入道かしこまり年寄に似合ざることと申上れば。備中は年若き頃より用立し者なるが不便の事なり。入道さるべく葬られよと仰らる。入道が子河内守長孝も戸田武蔵守重政が冑の鉢を鎗にて突通せしと聞召。其鎗とりよせて御覧あるに。いかゞしてか御指にさはり血出ければ。村正が作ならむとて見給ひしに果して村正なれば。長孝も迷惑の様して御前を退き。御次の者に事のゆへよしをとひて。はじめてこの作の  当家にさゝはる事を志り。御家の為にならざらむ品を所持して何かせむとて。さし添を抜きてその槍を散々に切折りしとぞ。

※『東照宮御実紀附録』巻十「家康感謝黒田長政」

小早川秀秋、家康にひざまずく

金吾秀秋は参陣遅々しければ。村越茂助直吉を遣はされてめし呼る。秀秋長臣二十人ばかりをしたがへて参り芝居に跪てあり。  君床机より下らせ給ひ。かねて懇誠を通ぜられしうへに。また今日の大功神妙の至なりと宣ふ。秀秋忝き由を申し。  明日佐和山討手の大将を望みこふによて御ゆるしあり。
この時金吾が見参せし様を見て。後日に福島正紀が黒田長政に語りしは。こたび  内府勝利を得られしといへども。いまだ将軍にならせられしにもあらず。さるに秀秋黄門の身として芝の上に跪き手を束ねし様は。いかにも笑止にてはなきかといへば。長政さればと鷹と雉子の出合とおもへばすむ事よと笑ひながらいふ。正則こは御辺の贔屓のいひ様なれ。鷲と雉子ほども違はむかといひて笑てやみしとぞ。(武徳安明記。明良洪範。天元實記。)

※『東照宮御実紀附録』巻十「家康感謝黒田長政」

「生米を食って腹を壊すな」家康が全軍に指示

生米でも、食えるだけありがたい(イメージ)

十五日の申刻より大雨降出し。車軸を流すことくなれば。飯を炊く事ならず。御本陣より御使番馳まはり諸陣に觸しめられしは。かゝる時は飢にせまり生米を食ふものなり。されば腹中を損ずべし。米をよくよく水にひたし置。戌の刻に至り食すべしと仰諭されしかば。いづれも尊意のいたらぬくまなく。ゆきとどかせらるゝを感じ奉れり。さるに不破の河水溢れ出て戦死の尸骸を押流し水の色血にそみしかば。浸せし米もみな朱色に変ぜしとぞ。(落穂集。)

※『東照宮御実紀附録』巻十「家康感謝黒田長政」

朽木元綱、家康に赦される

朽木河内守元綱はこの日の夜に入り。細川忠興にたより御本陣に伺公し。元綱一旦敵方にくみせし罪は遁るゝ所なしといへども。脇坂中務少輔安治が陣に属し御味方の色をあらはしたり。あはれ御ゆるし蒙りて後日の忠功をはげまさしめむといふ。  君聞召。其方などの如き小身者は。草の靡きといふものにて深く責るに及ばず。本領安堵これまでの如しと仰ければ。元綱も盛慮の寛洪なるに感じ。涙落して御前をまかでしとなん。(東遷基業。)

※『東照宮御実紀附録』巻十「家康感謝黒田長政」

終わりに

以上『徳川実紀』の伝える関ヶ原の合戦を紹介しました。果たしてNHK大河ドラマ「どうする家康」ではどのエピソードが採用されるでしょうか。

今回は家康中心の視点でしたが、西軍や他勢力から見た関ヶ原も紹介したいですね。

いよいよ始まる天下分け目の大決戦、今から楽しみにしています!

※参考文献:

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