当たり前のことながら、人間はいつどこで死ぬか、その時その場になってみないと分かりません。
いつ死ぬかは分からなくても、どこでどのように死ぬかはなるべく選びたいのが人情ではないでしょうか。
今回は望郷の思いを胸に死んでいった藤原惟規(ふじわらの のぶのり)を紹介。紫式部の兄弟として知られる人物ですね。
『十訓抄(じっきんしょう)』には、その最期が記されていました。
なほこの度はいかんとぞ思……
時は寛弘8年(1011年)、惟規は越後国(現:新潟県)で最期の時を迎えようとしていました。
「あぁ、都に帰りたい。みんなに会いたい……」
父・藤原為時が越後守(国司の長官)となったため、その赴任に同行したものの、現地で病に倒れてしまったのです。
「このまま死んでたまるものか、生きて帰りたい。生きてみんなに……」
何としてでも京都に帰りたい。そんな思いを、惟規は和歌に詠みました。
都にも 恋しき人の 数多(あまた)あれば
なお此の度は いかんとぞ思……
【意訳】京都にも恋しい人がたくさんいるのだ。今回は生きて行こう(帰ろう)と思……
「いかんとぞ」は「生かん」と「行かん」をかけたのですね。
途中まで書いて力尽きてしまったのか、和歌はここで途切れています。
「何を弱気な。しっかりせぇ!」
為時は山寺よりお坊様を呼び、祈祷させましたが、回復の見込みはなさそうです。
「お坊様、中有(ちゅうう。あの世)とは、いかなる所でしょうか?」
惟規の問いに、お坊様の答えて言うには、
「夕暮れ空の下、広い野原をさまようようなものじゃ。知る人もなくただ一人、心細くひた歩くのじゃ」との事。
まったく、少しは気休めになるようなことを言えばよかろうに……為時は苛立ったかも知れません。しかしお坊様の話は続きます。
「古くから『前の道を行かんと欲すれども資糧なく、中間に住まんと求むれどもとどまる所なし』と申す」
いつまでも飢え苦しみ、安住の地なくさまよい続ける……まったく救いも何もあったもんじゃありません。
惟規は息も絶え絶えに言いました。
「しかしそこでは、嵐に紅葉が舞い散り、尾花(ススキ)が風になびいておる。松虫も鈴虫も鳴いておるから、行ってみればまぁ悪い世界でもなかろう」
とか何とか。お坊様はどこまでも風流を求める惟規にあきれ、さっさとお暇してしまったのでした。
……まったく病人の不安を煽りおって……為時がどう感じたかは知りませんが、程なくして惟規は息を引き取ってしまいました。
生年不詳のため厳密には分かりませんが、30代半ば過ぎと考えられます。
終わりに
四五 藤原惟規は、世のすきものなりけり。父越後守為時に伴ひて、彼國へくだりける程に、おもく煩ひけるが、
※『十訓抄詳解』上巻より
都にも恋ひしき人のあまたあれば、なほこの度はいかんとぞ思ふ。
とよみたりけれども、いとゞ限りにのみ見えければ、父のさたにて、或山寺より善知識をよびたりけるが、中有(ちうう)の旅のありさま、心ほそき様などいひて、これにやすらはで、直ちに浄土へ参り給ふべき様はなど、いひ聞かせけり「中有とは、いかなる所ぞ」と病人問ひければ「夕ぐれの空に、ひろき野にゆき出でたるやうにて、志れる人もなくて、たゞひとり、心ほそくまどひありくなり。倶舎には「欲往前路無資糧、求住中間無所止」なと申したる」といひけるを聞きて「其の野には、あらしにたぐふもみぢ、風になびく尾花がもとに、まつむしも鈴むしも鳴くにや。さたにもあらば、何かくるしからん」といふ。これを聞きて、あいなく、心づきなくておほえければ、此の僧にけ去りにけり。此の歌のはてのふ文字をば、えかゝざりけるを、さながら都へもて帰りてけり。おやとも、いかにあはれにかなしかりけん。
かくして我が子を見送った為時。辞世ととなってしまった和歌を見て、最後の文字を「ふ」と足してやりました。
都にも恋ひしき人のあまたあれば、なほこの度はいかんとぞ思「ふ」
その一文字を、為時はどんな思いで書き足したのでしょうか。
また、遠く京都で兄弟の訃報に接した紫式部が、何を思ったかも気になるところです。
果たしてNHK大河ドラマ「光る君へ」では、太郎の死がどのように描かれるのか、今から注目しています。
※参考文献:
- 石橋尚宝『十訓抄詳解』国立国会図書館デジタルコレクション
コメント