この世をば 我が世とぞ思ふ 望月の
欠けたることもなしと思へば※藤原実資『小右記』より
三后(三代の后すなわち皇后・皇太后・太皇太后)すべて自分の娘で固める前人未到の快挙を成し遂げ、皇室の外戚として権力の頂点を極めた藤原道長が詠んだ「望月の歌」。
しかし皇室に送り込まれた娘たちにしてみれば、絶えず「皇子=次の天皇陛下を産め!」というプレッシャーにさらされ、文字通り生命を削られる想いだったことでしょう。
今回は道長の政具として後一条天皇(一条天皇の第二皇子・敦成親王)に入内した四女・藤原威子(いし/たけこ)を紹介。
果たして威子はどんな女性で、どんな生涯を送ったのでしょうか。
産んだ子供は女児二人
藤原威子は長保元年(999年)12月23日、藤原道長とその正室である源倫子の間に誕生しました。
同母兄弟姉妹には藤原彰子(しょうし/あきこ)・藤原頼通(よりみち)・藤原妍子(けんし/きよこ)・藤原教通(のりみち)・藤原嬉子(きし/よしこ)がいます。
寛仁2年(1018年)に21歳で後一条天皇へ入内。9歳年長の姐さん女房であり、当人は大変恥じ入ったそうですが、誰もバカにすることなど出来ません。
それどころか兄弟たちすら遠慮して娘を入内させなかったため、威子は後一条天皇にとって唯一の伴侶となったのでした。
こうなると、何としてでも後一条天皇の皇子を産まなければなりません。
父・道長はじめ一族からのプレッシャーに耐えながら、なかなか子供を授からない日々の苦痛は察するに余りあります。
入内から8年の歳月が過ぎた万寿3年(1026年)、29歳となった威子はようやく初産を迎えました。
……が、生まれたのは女児(皇女)でした。道長はじめ、一族は冷ややかな目で威子を責めたことでしょう。
「過去には女帝が立った例もあるではないか。男児でも女児でも、我が子への愛情は少しも変わりない」
後一条天皇はそう言って威子をかばいました。威子としては嬉しかった反面、申し訳なく思ったのかも知れません。
その後も長元2年(1029年)に出産しましたが、こちらも女児。威子はますます針のむしろ状態だったことでしょう。
結局生まれたのはこの女児二人。姉は章子内親王(しょうし/あきらこ)、妹は馨子内親王(けいこ/かおりこ)と名づけられました。
やがて長元9年(1036年)に後一条天皇が崩御してしまい、悲しみの中で威子も出家。その2日後に自身も崩御したのです。
藤原威子・略年表
長保元年(999年)1歳
12月23日 誕生
長和元年(1012年)14歳
正四位下/尚侍(ないしのかみ)に任官、裳着、従三位に昇叙
長和2年(1013年) 15歳
従二位に昇叙
寛仁元年(1017年)20歳
御匣殿別当(みくしげどのべっとう)を兼任
時期不明 従一位に昇叙
寛仁2年(1018年)21歳
3月7日 後一条天皇に入内
4月28日 女御宣下
10月16日 中宮冊立
同日 道長が望月の歌を詠む
万寿3年(1026年)29歳
12月9日 長女・章子内親王を出産
万寿4年(1027年)30歳
12月4日 父・藤原道長が薨去
長元2年(1029年)32歳
2月2日 次女・馨子内親王を出産
長元9年(1036年)39歳
4月 後一条天皇が崩御
9月4日 出家
9月6日 疱瘡により崩御
※元号と西暦にはズレがあるため、ここでは便宜上元号=西暦と一致させています。
藤原威子・基本データ
生没:長保元年(999年)12月23日生~長元9年(1036年)9月6日没
両親:藤原道長/源倫子
兄弟:藤原彰子・藤原頼通・藤原妍子・藤原教通・藤原嬉子
伴侶:後一条天皇(甥、彰子の皇子)
子女:章子内親王・馨子内親王
身分:後一条天皇中宮
別名:大中宮
位階:従一位
官職:尚侍、御匣殿別当
陵墓:宇治陵
終わりに
今回は藤原道長の四女・藤原威子について、その生涯をたどってきました。
皇子を産むために入内させられ、女児を産んでは周囲の落胆と失望にさらされ続けた境遇に胸が痛みます。
そんな中、唯一の救いは後一条天皇の優しさだったのではないでしょうか。
NHK大河ドラマ「光る君へ」では、威子と後一条天皇の絆がどのように描かれるのか、今から楽しみにしています。
※参考文献:
- 倉本一宏『人物叢書 一条天皇』吉川弘文館、2003年12月
- 山本淳子『源氏物語の時代 一条天皇と后たちのものがたり』朝日選書、2007年4月
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