血で血を洗う戦国乱世において、時として女性たちが最前線に立って戦うこともありました。
特に籠城戦など、もう後がない場合は決死の覚悟で敵に立ち向かったことでしょう。
今回は伊予国(愛媛県)に残る瑠璃姫(るりひめ)の伝承を紹介したいと思います。
夫と共に武勇を奮う

瑠璃姫は生年不詳、出自など詳しいことはわかっていません。
伊予国米津城(愛媛県大洲市。滝ノ城とも)の城主・津々喜谷遠江守行春(つづきや とおとうみのかみゆきはる。藤原行春)に嫁ぎ、二女一男を授かりました。
- 長女:八重姫(やえ)生年不詳
- 次女:九重姫(ここのえ)生年不詳
- 長男:尊雄丸(たかおまる)永禄12年(1569年)生
地元の伝承によると、米津城はたびたび長宗我部元親による侵攻を受け、一家は不安な日々を過ごしていたようです。
しかし瑠璃姫はただ怯えていた訳ではなく、彼女自身も果敢に武勇を奮いました。
遠くの敵には吹矢や手裏剣、敵が肉迫してきたら薙刀で斬り捨てるという、何だか忍者のような戦いぶりだったそうです。
しかし元亀元年(1570年)秋、ついに米津城が陥落の時を迎えます。
最早これまでと武士の意地を示すために城から出撃した行春らは自害して果てました。
滝壺へ身を投げる

出撃を前に、行春は瑠璃姫たちに降伏するよう言いおいたでしょうが、彼女は敵の辱めを受けることをよしとしません。
瑠璃姫は尊雄丸を抱え、娘たちとともに血路を斬り開き、米津城からの脱出に成功しました。
そして女郎が淵(じょろがぶち)と呼ばれる滝までたどり着くと、二人の娘に言い残します。
「あなたたちは何としてでも生き延びて、私たちの冥福を祈りなさい。私は世の女性たちを苦しめる病を治し、子宝を授けましょう」
そして尊雄丸を抱いたまま、約60メートルもある断崖から滝壺へと身を投げました。
尊雄丸は男児であるため、きっと生かしてはもらえまい。敵の手にかかるくらいなら……と思ったのでしょう。
侍女たちも次々と後を追って滝壺へ身を投げ、遺された八重姫と九重姫は生き延びて家族の菩提を弔ったそうです。
瑠璃姫・基本データ

- 生没:生年不詳〜元亀元年(1570年)没(11月23日?)
- 出自:不詳
- 伴侶:藤原行春(米津城主)
- 身分:正室
- 子女:八重姫、九重姫、尊雄丸
- 特技:武芸(薙刀、吹矢、手裏剣)
- 死因:自害(滝壺へ投身)
- 神格:女性守護(婦人病平癒、子宝安産)
終わりに

今回は伊予国に伝わる瑠璃姫の伝承を紹介しました。
ちなみに長宗我部元親が米津城を攻めたのは天正7〜8年(1579〜1580年)および天正11年(1583年)と言われているため、事実誤認の可能性も否定できません。
それでも瑠璃姫の悲劇は人々の心を打ち、地元では毎年11月23日を祭日と定め、盛大に供養祭が執り行われているそうです。
女性たちの守り神として、瑠璃姫は今も人々を見守っていることでしょう。
※参考文献:
- 橋場日月『戦国美麗姫図鑑』PHP研究所、2009年6月

