一条天皇の第一皇女
脩子内親王(ながこないしんのう)
海津 雪乃(かいづ・ゆきの)一条天皇の第一皇女。母は藤原定子。
※NHK大河ドラマ「光る君へ」公式サイトより
一条天皇(塩野瑛久)崩御の後、春宮となるべきであった敦康親王(片岡千之助)を引きずり下ろし、自分の血を引く敦成親王(あつひら。後一条天皇)を春宮に据えた藤原道長(柄本佑)。
最大の政敵であった藤原伊周(三浦翔平)もすでに亡く、もはや道長に抗しうる者は誰もいませんでした。
そんな中、敵わぬまでも毅然と道長政権に距離をおき続けたのが、一条天皇と皇后・藤原定子(高畑充希)の第一皇女・脩子内親王(海津雪乃)です。
今回はそんな脩子内親王(しゅうし/ながこ)の生涯をたどってみましょう。
幼くして母と死別
脩子内親王は長徳2年(996年)12月16日、いわゆる長徳の変によって藤原伊周・藤原隆家ら中関白家が没落していく最中に誕生しました。
※旧暦と新暦のズレがあるため、長徳2年12月16日は厳密には西暦997年1月27日となります。が、ここでは便宜的に長徳2年=西暦996年として扱います。
※『栄花物語』のみ12月20日と表記。
出産予定が大幅にずれ込んだため、人々は妊娠十二月(妊娠時期をごまかした?)などと噂しました。
※『日本紀略』長徳2年12月16日条に「懐孕十二ヶ月と云々」との記述あり。
名前について、後世の『大日本史』では脩と同じ意味の修子内親王(読み同じ)と表記されています。
長保2年(1000年)12月16日に母の定子が崩御したため、弟の敦康親王と、生まれてまもない妹の媄子内親王(びし/よしこ)は中宮・藤原彰子(見上愛)の養子女として引き取られました。
しかし脩子内親王だけは一条天皇の意向によって引き続き父の元で育てられます。子供たちを一人でも道長の手から守ろうと思ったことでしょう。
やがて脩子内親王が裳着(もぎ。女性の成人儀式)を迎えると三品(さんぼん。皇族の位階で三位に相当)に直叙せられました。
12歳となった寛弘4年(1007年)には一品(いっぽん)の位と准三宮(じゅさんぐう)の待遇を受けます。
准三宮とは准后(じゅごう)や准三后(じゅさんごう)とも呼ばれ、皇后・皇太后・太皇太后の三宮に准ずる存在(待遇)です。
皇后(こうごう):今上陛下の皇后陛下
皇太后(こうたいごう):先代陛下の皇后陛下
太皇太后(たいこうたいごう):先々代陛下の皇后陛下
※それより前の皇后陛下についてはハッキリしませんが、何代前でも太皇太后なのではないでしょうか。
脩子内親王を一品准三宮とする一条天皇の詔書は『大日本史』に収録されています。
父・弟・妹とも死別して独りぼっちに
その後、寛弘5年(1008年)5月25日に妹の媄子内親王が薨去。脩子内親王と敦康親王、そして一条天皇は悲しみにくれました。
寛弘8年(1011年)6月13日には一条天皇が重病のため、春宮の居貞親王(木村達成。三条天皇)に譲位。次の春宮は道長の意向によって敦成親王とされてしまいました。
敦康親王の養母として永年愛情をかけてきた藤原彰子は激怒し、父の道長と一条天皇に抗議したと言います。
もちろん当時の彰子に決定を覆す力はなく、何も変えられなかったのは言うまでもありません。娘に責められたくらいで意志を曲げる道長でもないでしょう。
同年6月22日に父の一条天皇が崩御、脩子内親王は道長と彰子の庇護下にい続けることをよしとせず、叔父の藤原隆家(竜星涼)に保護を求めて内裏を出ました。
これは明らかに道長一派と距離を置く意思表示であり、その後に待つイバラの道は百も承知だったはずです。
その後18歳となった長和2年(1013年)1月27日、亡き母の旧宅である三条宮へ遷御(せんぎょ。転居)しました。
名実ともに大人として独立した彼女は、亡き父母の遺志を受け継いで道長の専横に立ち向かう決意を示したのでしょうか。
寛仁2年(1018年)12月17日には敦康親王が薨去。脩子内親王は大層悲しんだそうです。
藤原延子(藤原頼宗女)を養女に迎える
母・父・妹・弟を喪い、独りぼっちになってしまった脩子内親王。
当時の女性皇族が多くそうであったように、脩子内親王もまた生涯を独身で過ごしました。
しかし家族がまったくいなかった訳ではなく、藤原延子(えんし/のぶこ。道長次男・藤原頼宗の娘)を養女に迎えています。
延子の母親は従姉(藤原伊周女)なので、従姪(いとこめい)の関係でした。
後に延子が後朱雀天皇(敦良親王。一条天皇第三皇子・藤原彰子の第二子で脩子内親王の異母弟)に入内した際は養母として付き添ったと言います。
脩子内親王は書や琴、琵琶にすぐれ、その技を延子にも伝えました。
また女流歌人の相模(さがみ)が女房として仕えていたり、『更級日記』作者の菅原孝標女(すがわらのたかすえの娘)と交流があったりなど、文学にも造詣が深かったようです。
そして日頃から信心深く、治安4年(1024年)3月に出家して入道一品宮(にゅうどういっぽんのみや)などと呼ばれます。
そして永承4年(1049年)2月7日に薨去。人々は「きっと宮殿下は成仏なされることだろう」と噂しました。
道長に栄華の座を追われた判官びいきもあったでしょうが、日ごろから人望に厚かったことが分かります。
そうしたこともあり、脩子内親王の異母弟である後一条天皇(敦成親王)や後朱雀天皇も、彼女を疎略には扱えなかったことでしょう。
終わりに
今回は一条天皇と藤原定子の第一皇女・脩子内親王の生涯をたどってきました。
没落していく中関白家の誇りを守り抜くように、毅然と道長に立ち向かう姿が目に浮かぶようです。
果たしてNHK大河ドラマ「光る君へ」では、どのような生き方を魅せてくれるのでしょうか。海津雪乃の好演に期待しています。
※参考文献:
- 倉本一宏『一条天皇』吉川弘文館、2003年12月
- 山本淳子『源氏物語の時代 一条天皇と后たちのものがたり』朝日選書、2007年4月
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