第16回放送「覚悟の比叡山」で、比叡山延暦寺のトップ(天台座主)である覚恕(黒田大輔)は、織田信長(小栗旬)の焼き討ちに遭ってしまいました。
劇中では無辜の門徒たちを楯にする悪役ぶりでしたが、実際はどうだったのでしょうか。
また、焼き討ちに遭った時はどのように振る舞ったのかも気になるところです。
という訳で、今回は覚恕(かくじょ)について、その生涯をたどってみたいと思います。
天台座主に上り詰める

覚恕は大永元年(1522年)12月18日、後奈良天皇(第105代)の皇子として誕生しました。
※一説には永正12年(1515年)生まれとも言われているそうです。
母親は伊予局(いよのつぼね。三位局、壬生雅久女)または和気親就女(わけの ちかなり娘)と言われますが、はっきりしていません。
大永5年(1525年)に出家し、天文6年(1537年)に師匠の慈運(じうん。延暦寺子院・曼殊院門跡)が亡くなったことから、曼殊院門跡と北野天満宮別当を受け継ぎました。
また弘治3年(1557年)に准三宮(※)宣下を受けたことから金蓮院准后(きんれんいんじゅごう)と呼ばれるようになります。
(※)三宮(三后)つまり皇后・皇太后・太皇太后に准(準)ずる立場およびその称号。
そして元亀元年(1570年)に天台宗のトップである天台座主(第166世)に就任したのでした。
信長による比叡山焼き討ち

しかしここが人生のピークで、翌元亀2年(1571年)9月12日、信長によって比叡山を焼き討ちされてしまいます。
信長と敵対する朝倉義景(鶴見辰吾)を公然と支援し、信長に追われた将兵を匿ったことがその原因でした。
朝倉によって歴戦の勇士・森可成(水橋研二)を討たれてしまった悔しさも、比叡山焼き討ちの一因となったと言われます。
信長とすれば、こう露骨に侮られてしまっては、実力行使に及ばざるを得なかったことでしょう。
震え上がった比叡山は賄賂を贈って攻撃中止を嘆願しますが、信長も今さら後へは退けません。
焼き討ち当日は在京していたため、自身は難を逃れたものの、覚恕は天台座主の辞意を表明しました。
このままでは自分の命も危ないと考えたのでしょうか。しかし依然として天台座主として扱われた≒辞任が認められなかったそうです。
周囲とすれば「信長に喧嘩を売った責任を全うしろ!」ということだったのかも知れませんね。
比叡山再興の道は遠く

明けて元亀3年(1572年)には甲斐の武田信玄(高嶋政伸)に対して延暦寺再興を嘆願しており、一時は身延山に移転する計画もあったと言います。
※しかし信玄の死により実現には至りませんでした。
この年、覚恕の斡旋によって信玄は権僧正(ごんのそうじょう)に任じられたそうです。この人事を受けて、信玄は仏敵・信長の打倒に燃えたのではないでしょうか。
焼き討ち後に古巣の曼殊院へ戻った覚恕は、天正元年(1573年)末に発病し、天正2年(1574年)1月3日に世を去りました。
信長の焼き討ちが、彼の寿命を大きく縮めたのではないでしょうか。
その後10年間にわたって天台座主は空位となり、門弟の青蓮院尊朝(しょうれんいん そんちょう)が天台座主を受け継いだのは、天正12年(1584年)のことでした。よほど信長を恐れていたのでしょうね。
尊朝や正親町天皇(第106代)の尽力によって次第に比叡山は復興の道のりを歩んだということです。
終わりに

今回は信長に焼き討ちされてしまった比叡山延暦寺の天台座主・覚恕について、その生涯をたどってきました。
永年の修行を経て天台座主に上り詰めたのに、あっけなく焼き討ちされてしまう様子に、世の無常を痛感したのではないでしょうか。
果たして大河ドラマ「豊臣兄弟!」では今後も登場・活躍するのか、しっかり見届けたいですね!
※参考文献:
- 日本史史料研究会 編『戦国僧侶列伝』 星海社新書、2018年11月

