天下一統の覇道を邁進する織田信長は、その途上で多くの者たちに裏切られてきました。
今回は信長に叛旗をひるがえした一人である荒木村重(あらき むらしげ)について、その生涯をたどってみたいと思います。
摂津一国を切取った梟雄

荒木村重の出自は丹波国に勢力を持っていた波多野(はたの)氏の一族と言われ、はじめ摂津国の池田勝正(いけだ かつまさ)に仕えていました。
やがて池田氏が内紛によって弱体化すると、村重は下剋上に乗り出し、天正元年(1573年)に茨木城を掌中に収めます。
間もなく高槻城主の和田惟政を追放して摂津国の東半分を切り取ることに成功、天正2年(1574年)には旧主・勝正を高野山へ追放しました。
さらには伊丹忠親(いたみ ただちか)を滅ぼし、その居城であった伊丹城を乗っ取って自身の本拠地とし、有岡城と改名します。
かくして摂津一国の切取りを成し遂げた村重は、信長から厚く信頼されて摂津支配を任され、その後も織田家臣として武功を重ねたのでした。
永年の宿敵であった石山本願寺・一向一揆との合戦をはじめ、天正3年(1575年)以降は中国地方に対する調略を盛んに行います。
また天正5年(1577年)の紀州征伐(本願寺盟友・雑賀衆攻め)に出陣、翌天正6年(1578年)には羽柴秀吉の後方支援として播磨上月城攻めにも加わりました。
信長を窮地に追い込む

そんな村重に謀叛の噂が立ったのは、天正6年(1578年)9月下旬から10月中旬にかけてです。
事態を憂慮した織田家臣の佐久間信盛・福富秀勝(ふくとみ ひでかつ)・堀秀政・矢部家定らが村重の元を訪れ、誤解を解くよう説得を試みましたが、村重は応じませんでした。
10月21日には村重謀叛の噂が信長に知られてしまいますが、はじめ信長は「不満があるなら申してみよ。考えがあるなら聞き入れよう」と村重に寄り添う姿勢を示しています。
もしここで村重に叛旗をひるがえされたら、いわゆる信長包囲網、特に石山本願寺や毛利輝元&足利義昭らの勢力に弾みがつくことは避けられません。
また播磨三木城主の別所長治との戦いも始まり、こちらも苦戦が予想されました。摂津国で村重に謀叛を起こした場合、畿内ひいては中国地方戦線のパワーバランスが大きく崩れると憂慮したのでしょう。
ともあれ使者として明智光秀・松井友閑(まつい ゆうかん)・万見重元(まんみ しげもと)らを派遣すると、村重は「謀叛の野心などございません」と回答しました。
信長は村重の回答に喜び、母親を人質に出せば謀叛の件は不問に処すると伝えています。しかし村重は本心を隠しており、中川清秀の勧めによって決意を固めていました。そしてついに村重は挙兵し、信長を窮地に追い込んだのです。
信長は朝廷に対して石山本願寺との和睦仲介を申し入れましたが、石山本願寺はこれを素直には受け入れません。交渉が難航するうちに状況が好転したことから、結局和睦は白紙となりました。
村重の謀叛に呼応していた高槻城主の高山右近と茨木城主の中川清秀が、村重を見限って信長に帰順したこと、また天正6年(1578年)11月6日の木津川沖海戦で織田軍が毛利・本願寺軍を撃破したことが大きな理由です。
なぜ村重は謀叛を起こしたのか

ところで村重は、なぜ信長に対して謀叛を企んだのでしょうか。
数ある諸説を整理すると、以下3説に集約されます。
一、部下が石山本願寺に内通した。三木合戦(別所攻め)で部下が無断で敵を助命した。
一、明智光秀が自身の謀叛を起こす布石として、邪魔になる村重を葬り去ろうとした。
一、織田家に従うよりも、毛利家での立身出世に駆けた。
前の二つは『陰徳太平記』などの二次史料に基づく説であり、信憑性は今一つです。三つ目の「毛利家の未来に賭けた」説はある程度の根拠があり、この可能性が最も濃厚と言えるでしょう。
本願寺光佐(ほんがんじ こうさ)が荒木父子(村重・村次)にあてた起請文では、村重の新たな領地について足利義昭に従うよう述べられていました。このことから、村重は謀叛の噂が立つ前から織田・毛利両氏に対して「どっちが得か」二股をかけていたと考えられます。
また石山本願寺攻めの指揮権を佐久間信盛に奪われ、中国攻めの指揮権も羽柴秀吉に奪われたため、織田家における前途を悲観したことも謀叛の動機として考えられるでしょう。
そして有力な与力であった高山右近や中川清秀の支持もあって(後であっさり梯子を外されますが)、村重は「石山本願寺や毛利と連携すれば勝算は十分にある」と読んで挙兵に踏み切ったのでした。
妻子を見捨てて徹底抗戦

天正6年(1578年)11月中旬ごろから、村重が立て籠もる有岡城への攻撃は激しさを増します。
総大将は信長嫡男の織田信忠、10ヶ月におよぶ籠城戦の末、天正7年(1579年)9月に村重は有岡城を脱出して尼崎城へ逃げ込み、毛利氏に援軍を要請しました。
しかし芳しい反応は得られず、天正7年(1579年)11月に有岡城は陥落。信長は再度村重に対して降伏するよう説得しますが、村重はこれを聞き入れません。
激怒した信長は捕虜としていた村重の妻子36名を京都で処刑、さらに荒木家臣やその妻子600余名を磔刑・火刑に処したと言います。それでも村重はなお抵抗を続けました。
尼崎城から逃げ出して花隈城(はなくまじょう)へ立て籠もり、天正8年(1580年)7月に花隈城も陥落すると、何もかも失った村重は毛利領へ転がり込みます。
かくして村重の野望は潰えてしまいましたが、村重はなおも生き延びて、信長死後に茶人として活躍しました。
道薫(どうくん。道糞は俗説)と号した村重は、後に秀吉の茶匠として召し抱えられます。後に千利休の高弟「利休七哲」に数えられたのは有名ですね。
本能寺の変との共通点

今回は荒木村重の謀叛について紹介してきました。ところで村重の謀叛には、後に明智光秀が起こした「本能寺の変」と共通する点があると言われます。
光秀は四国方面の取次を担当していたところを、織田信孝と丹羽長秀に奪われてしまいました。村重が秀吉に中国方面の取次を奪われたのと同様です。
また腹心の斎藤利三に謀叛を後押しされた点も、村重と中川清秀の関係に通じます。
どちらも取次の役目を奪われたことで織田政権内における前途を悲観しており、そこへ腹心の存在が実行の引き金となったのでしょう。
武家の権力を支えていたのは、家臣や国人などの存在でした。家運が順調なら集権体制を確立できる一方で、ひとたび存続の危機に直面すると、彼らの考えや意向が無視できなくなります。
信長に叛旗をひるがえすか、あるいは思いとどまるか。その決断は、単に村重や光秀だけの話ではなかったのです。
こうした事情から謀叛は決行され、信長は波多野秀治(丹波国)・松永久秀(大和国)・荒木村重(摂津国)・別所長治(播磨国)らの謀叛に悩まされた挙げ句、明智光秀(本能寺の変)にとどめを刺されてしまいました。
※ほか家臣ではないけど、浅井長政(近江国)・足利義昭(山城国)・武田信玄(甲斐国)らにも裏切られています。唯一裏切らなかった盟友と言えば、徳川家康(三河国)くらいでしょう。
終わりに
裏切りが繰り返された戦国乱世にあっても、信長ほど多くの者に裏切られた大名はそう多くありません。
信長はさぞ激怒したでしょうが、叛臣たちについてもそれぞれの事情があり、葛藤と決断があったことと思われます。
彼らのエピソードについても、改めて紹介していきたいです。
※参考文献:
- 渡邊大門『戦国史が面白くなる「戦国武将」の秘密』洋泉社、2015年1月


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