鎌倉幕府の歴代将軍でも、特に和歌を嗜んだことで知られる第3代・源実朝(みなもとの さねとも)。
その師となった一人に、かの「小倉百人一首」で有名な藤原定家(ふじわらの ていか/さだいえ)がいました。
……去建永元年御初學之後御歌撰卅首。爲合點。被遣定家朝臣也。
【意訳】和歌を習い始めた建永元年(1206年)に詠んだ作品30首を選び、藤原定家に添削をお願いするため京都へ送った。
※『吾妻鏡』承元3年(1209年)7月5日条
かねがね京都でも高名な歌人・定家朝臣に和歌の添削をお願いしたい……実朝が自身の作品を送ったところ、翌月になって定家から返事が来ます。
……所被遣于京極中將定家朝臣之御歌。加合點返進。又獻詠歌口傳一巻。是六義風躰事。内々依被尋仰也。
【意訳】定家朝臣に送っていた和歌の添削が戻ってきた。丁寧なコメント・アドバイスと共に、一冊の和歌テキストも添えられている。
※『吾妻鏡』承元3年(1209年)8月13日条
かの有名な定家朝臣が、自分の拙い和歌を手直ししてくれた……実朝は大層喜び、いっそう精進したことでしょう。
時に、この藤原定家はどんな人物で、どんな生涯を送ったのでしょうか。和歌を嗜むやんごとなきお方ですから、さぞ風雅にお暮らしあそばされたと思ったら大間違い。
今回はそんな藤原定家の人生をたどってみたいと思います。
苦労続きの少年時代に和歌の才能をあらわす
藤原定家は平安末期の応保2年(1162年)に誕生しました。父は藤原俊成(としなり)、母は美福門院加賀(びふくもんいんかが。藤原親忠の娘)です。
仁安元年(1166年)に5歳で従五位下となり、さっそく殿上人(五位以上の位階を持つ上級貴族)の仲間入り。14歳で政界デビューするなど、早くもエリート街道に踏み出しました。
しかしその安元元年(1175年)に赤斑瘡(麻疹)を患い、安元3年(1177年)には16歳で疱瘡を患うなど大病続き。
結果、後遺症によって呼吸器疾患や虚弱体質、神経症などを抱えることになってしまいました。
また、父も健康上の理由で安元2年(1176年)に出家、政治的な後ろ盾を失ってしまったのです。
そんな定家が和歌の才能をあらわしたのは治承3年(1179年)。18歳の時に賀茂別雷神社で開催された歌合に初出場。藤原公時(きんとき)と引分ける名勝負を演じました。
治承4年(1180年)には従五位上に昇進、21歳で初めてとなる歌集『堀川院題百首』を世に出し、九条兼実(くじょう かねざね)ほか多くの歌人たちから高く評価されます。
寿永2年(1183年)には正五位下へ昇進。この頃に藤原季能(すえよし)の娘を娶り、寿永3年(1184年)には長男となる藤原光家(みついえ)が生まれました。
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九条兼実に仕えて活躍
少年期の苦難を乗り越え、ここまで順調にやってきた定家でしたが、24歳となった文治元年(1185年)。同僚である源雅行(みなもとの まさゆき)に嘲笑を浴びせられ、ついカッとなって雅之をブン殴ってしまいます。
勅勘をこうむって除籍処分(クビ)となってしまった定家は、父らのとりなしによって翌文治2年(1186年)に政界復帰を果たしました。
同じ年に九条兼実の家司として仕え、次男の九条良経(よしつね)や兼実の弟・慈円(じえん)らと親しく交流。兼実の寵愛を後ろ盾に活躍します。
文治5年(1189年)には28歳で左近衛権少将へ昇任、翌文治6年(1190年。建久元年)には従四位下へ昇進。
やがて前妻を離縁して西園寺実宗(さいおんじ さねむね)の娘と再婚、建久6年(1195年)に娘の藤原因子(いんし/もとこ)が生まれています。同年に従四位上へ昇進しました。
ここでまた人生のピンチが定家を襲います。それが建久7年(1196年)に起こった「建久七年の政変」です。
以前から九条兼実とライバルであった土御門通親(つちみかど みちちか。源通親)の策謀によって兼実は失脚。慈円も要職を退くなど九条派の勢力は大きく削がれました。
定家自身に対する影響は不明ですが、義兄弟の西園寺公経(きんつね。実宗の子)らは出仕を止められており、まったく無関係とは見なされなかったはず。
しばらく不遇が続く中、建久9年(1198年)に嫡男の藤原為家(ためいえ)が誕生。何とかこの子にはいい暮らしをさせてやりたい。定家は捲土重来を誓ったことでしょう。
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政敵にも取り入ってしまう図b……したたかさ
月日は流れて正治2年(1200年)、近ごろ和歌に目覚められた後鳥羽上皇(ごとばじょうこう)が歌会を開催するとの情報を得た定家。せっかく正四位下に昇進したので、ここで勢いをつけたいところ。
しかし土御門通親らは何とか定家の出場を阻もうとします。定家たちの方も何とか出場しようと暗闘を繰り広げた結果、晴れて出場権を獲得しました。
翌建仁元年(1201年)の歌合にも参加を果たし、後鳥羽上皇から気に入られたのでした。
「勅撰和歌集の選者となって欲しい」
「ありがたき幸せ!」
こうして和歌の才能でまたも政界復帰を軌道に乗せた定家。しかし通親の存在は厄介です。
「ならば、対立するのではなく取り入ってしまおう!」
思い立ったら行動の速いのが定家の強み。これまで政敵としていがみ合ってきた通親や、後鳥羽上皇の乳母である藤原兼子(けんし/かねこ)にもせっせと取り入ります。
いわゆる猟官運動(官位を狩る≒他人と争い激しく求める。出世競争を卑しむ表現)ですが、笑わば笑えの精神で定家はどこまでもあけすけに突き進みました。
こういうわざとらしい処世術は往々にして嫌われるものの、それでもとことんまで媚びられると、何故か悪い気がしなくなってしまうのもまた人情。
定家の一念が通じたようで、建仁2年(1202年)に通親が亡くなると左近衛権中将に昇任を果たしたのでした。
「よっしゃ次は内蔵頭(くらのかみ)だ!」
元久元年(1204年)には勅撰和歌集『新古今和歌』が完成。自身の詠んだ和歌もしっかり(ちゃっかり?)41首を採録。それを許されるだけの才能と権力を兼ね備えていたことが判ります。
「くーらのっかみっ!くーらのっかみっ!」
ますます鼻息荒く内蔵頭を求めた定家は、藤原兼子にこれでもかと取り入り続けます。しかし当然ながら、高位になるほどその難易度も比例するもの。
「まぁ、その……時期を見て、ねぇ?」
念願の内蔵頭を目前に、しばらく足踏みをさせられる定家なのでした。
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際限ない欲望の末路
なかなか内蔵頭になれずやきもきする定家がチャンスを掴んだのは承元4年(1210年)。
「あの~。私、左近衛権中将を辞退するので、代わりとして息子(嫡男の藤原為家)を左近衛権少将にして欲しいのですが……」
こうして自身の官職と引き換えに為家を左近衛権少将とした定家。しかし無官というのは格好がつきませんし、何か手ごろな官職は……?
「そう言えば、内蔵頭がちょうど空いていませんでしたっけ?」
とかとぼけた事を言ったか言わぬか、ちゃっかり念願の内蔵頭に収まったのです。まさに「肉を切らせて骨を断つ」捨て身の作戦が奏功したのでした。
でも、いざ内蔵頭になれたらなれたで満足する定家ではありません。彼の猟官運動はさらに激しさを増し、50歳となった建暦元年(1211年)、従三位となり公卿(くぎょう。三位以上の最上級貴族)に列したのです。
「まーだまだ行くよー!」
建保2年(1214年)に参議、建保4年(1216年)に正三位、承久2年(1220年)には播磨守を兼任……。
建久七年の政変からずっと主君の九条家や舅の西園寺家が不遇であった中、凄まじい出世街道を驀進していた定家。しかし彼の欲望は留まるところを知らず、現状への不満を詠んだ和歌を歌会に持っていったからさぁ大変。
「この欲張りめがっ!」
無粋極まる定家の傲慢さに掣肘を加えるべく、後鳥羽上皇は彼の活動を一切封じてしまったのでした。
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我が世の春、ついに到来!黄金の60代を駆け抜ける
「あぁ、これで今度こそおしまいじゃ……」
宮中を追放され、失望のどん底にあった定家。これで人生のピンチは何度目でしょうか。
しかし悪運の強さが定家の身上?翌承久3年(1221年)に勃発した承久の乱により、鎌倉幕府に敗れた後鳥羽上皇は隠岐国(現:島根県隠岐島)へ流されたのです。
そして鎌倉幕府と最も親密であった(がゆえに、戦時中は裏切り者として幽閉されていた)義兄弟の西園寺公経が華麗な大逆転を果たします。今や彼の存在なくして、鎌倉との交渉も出来ない状態に。
「よっしゃあ……我が世の春、ついに到・来!」
兼実の孫・九条道家(みちいえ。良経の子で、第4代鎌倉殿・藤原頼経の父)の後ろ盾も得て承久4年(1222年)に従二位、嘉禄3年(1227年)には正二位と黄金の60代を突き進んだのです。
「だかしかし……まだまだじゃ!次は権中納言に、麿はなる!」
もういい加減にしなさいよ……そんな周囲の声が聞こえてきそうなものですが、定家の執念は止まりません。
寛喜2年(1230年)、もう足腰も弱くなった定家は妻を代理として日吉神社(京都市東山区、新日吉神宮か)に参籠(さんろう。お籠り祈願)させます。最後は神頼みのようです。
「やっぱり代理じゃダメなのか~っ!?」
こうなったら、何としてでも自分で行くしかありません。そこで寛喜3年(1231年)、70歳になった定家は人にすがりつき、這いつくばるようにして春日大社(現:奈良県奈良市)へ詣でたのでした。
「ぐおぉ~……うぎぃ~……」
権中納言って、そんなにしてまでなりたいものなんでしょうか。
「なりたいんじゃ!麿は、何としても、権・中な・ごんに……ぐぎぃ~……」
そんな思いが通じたのか、はたまた周囲が匙を投げたのか、寛喜4年(1232年)正月。ついに定家は71歳で念願の権中納言に昇任したのです。
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政界を完全引退、珠玉の百首を選び抜いた「小倉百人一首」
ただし、同年12月に権中納言を罷免されてしまった定家。
道家と何か対立してしまったのか(ありそう)、心身ボロボロでドクターストップがかかったのか(これもありそう)、そもそも「可哀想だから一年だけ権中納言にしてやろう」という約束(これもありそう)だったのかも知れません。
いずれにせよ、もはや心身ボロボロの定家は政界より完全引退。14歳から71歳まで57年間、本当にお疲れ様でした。
天福元年(1233年)に出家した定家は、その法号を明静(みょうじょう)と称します。とは言え歌人としての才能はなお高く買われており、寛喜4年(1232年)から命じられていた『新勅撰和歌集』の編纂を文暦2年(1235年)に完成させました。
自身の和歌は15首を採録。これは権勢の衰えによるものか、あるいは歌才の高まりに伴い、自らに対する審査眼が厳しくなったのかも知れません。
さて、元号の改まった嘉禎元年(1235年)。74歳となった定家の元へ、宇都宮頼綱(うつのみや よりつな)入道から和歌の依頼を受けました。
「小倉山荘の障子に、和歌を詠んだ色紙を貼りたい。百首ほど選んで揮毫してもらえまいか」
定家はこれを承諾、自分の好みで選んだ古今の百首を揮毫。これが「小倉百人一首」です。
天智天皇(てんじてんのう。第38代)から後鳥羽上皇・順徳院(じゅんとくいん。後鳥羽上皇の皇子・第84代)まで、自分の好きな和歌を百首。
勅撰和歌集に携わっていた時はテーマのバランスなど色々と制約があったのが、完全に自分のセンスと好みで選び抜かれた珠玉の百首と言えるでしょう。
多いテーマは「恋愛」と「秋」で半分以上を占めており、定家の好みがうかがえます。
そして仁治2年(1241年)8月20日、定家は80歳でこの世を去ったのでした。
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終わりに
世の中は 常にもがもな なぎさこぐ
海人の小舟の 綱手かなしも【意訳】この世の中が、ずっと変わらずにあって欲しいものだ。
※藤原定家「小倉百人一首」第93番・鎌倉右大臣
渚を漕いでいた漁船が陸へ曳き揚げられる情景に、とても心ゆさぶられてしまう。
漁に出ていた者たちが、当たり前のように家族の元へ帰って行く。そんな何げない幸せが、いつまでも続けばいいのに……。
定家が「小倉百人一首」に選び抜いた実朝(鎌倉右大臣)の一首。素朴に詠まれた純粋な思いが、彼の胸に響いたのでしょう。
生前はあまり評価の高くなかった実朝ですが、その尊い願いこそ末永く受け継がれかしと願って選んだものと思われます。
果たしてNHK大河ドラマ「鎌倉殿の13人」に藤原定家は登場するのでしょうか。登場するとしたら、誰がキャスティングされるのか、そしてどのような脚本に描かれるのでしょうか。
今から、とても楽しみにしています。
※参考文献:
- 村山修一『人物叢書 藤原定家』吉川弘文館、1989年9月
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