時は江戸初期の延宝元年(1673年)、鎖国中の日本に対して貿易の再開を求める英国(ゑげれす)船リターン号が長崎へやって来ました。
長崎奉行は元より、幕府当局は貿易はおろか上陸も拒否、そのまま退去するよう命じます。
……しかし相手が必ずしも大人しく従ってくれるとは限らず、対応を誤れば武力衝突に発展するリスクもあるため、備えを固めねばなりません。
そこで今回は、武士道のバイブルとして名高い『葉隠(はがくれ。葉隠聞書)』より、長崎奉行の応援に向かった佐賀藩の対応を紹介。
現場の緊迫感が、少しでも伝わればと思います。
各員、戦闘配備!諸将への示達
「……これより、各隊の配置を申し渡す」
急報を受けて長崎へ駆けつけた諸将に対し、現場指揮官となった神代左京(じんだい さきょう)は作戦計画を伝えました。
駆けつけたのは以下の面々(面倒だったら読み飛ばしても支障ありません)。
【副官】大木勝右衛門(おおき かつゑもん)
【副官】多久兵庫(たく ひょうご)【聞番…渉外担当】廣木八郎兵衛(ひろき はちろべゑ)
鍋島志摩守茂里(なべしま しまのかみしげさと)
鍋島安芸守茂賢(あきのかみしげまさ)
中野九郎兵衛(なかの くろべゑ)
喜多島外記(きたじま がいき)
土肥蔵人(どい くろうど)【鉄砲物頭】
深堀新左衛門(ふかぼり しんざゑもん)
相浦源左衛門(あいうら げんざゑもん)
深堀頼母(ふかぼり たのも)
石井権之丞(いしい ごんのじょう)
堤六左衛門(つつみ ろくざゑもん)
石井十郎右衛門(いしい じゅうろうゑもん)
西五太夫(にし ごだゆう)【石火矢役】※石火矢:大砲
原次郎兵衛(はら じろべゑ)
大家兵左衛門(おおや へいざゑもん)
平方利兵衛(ひらかた りへゑ)
伊東八右衛門(いとう はちゑもん)
武富平兵衛(たけとみ へいべゑ)
富永次右衛門(とみなが じゑもん)
井原八郎左衛門(いはら はちろうざゑもん)
高木與左衛門(たかぎ よざゑもん)
内田作右衛門(うちだ さくゑもん)
島内三兵衛(とうない さんべゑ)
武富三之丞(たけとみ さんのじょう)
大庭六右衛門(おおば ろくゑもん)
馬場新右衛門(ばば しんゑもん)
これらの者たちが「いざ鎌倉」とばかり、一斉に長崎へ押しかけたものだからさぁ大変。
あまりに騒ぎを引き起こしても困るため、神代左京は一同に対してまとまらず、また目立たぬよう編板(あんだ。粗末な輿)などを用いてバラバラに集合させたそうです。
さて、気を取り直して各隊の海上配備計画を伝えます。
一番組は鍋島志摩守が率いて白崎沖に停泊、西浜北の先から乗り組むこと。
二番組は中野九郎兵衛が率いて神ノ島の前に停泊、一番組に続いて乗り組むこと。
三番組は鍋島安芸守が率いて神ノ島の沖合に停泊、二番組に続いて乗り組むこと。
四番組(本隊)は神代左京はじめ多久兵庫・大木勝右衛門・西五太夫がそれぞれの船を指揮し、博奕島と一ツ家の中間に布陣。大波留の前から乗り組む。
五番組は喜多島外記・土肥蔵人・原次郎兵衛らの石火矢船五艘、高鉾台場の北に停泊してマコメの下から乗り組むこと。
もしも英国船が退去を拒否した場合、海洋封鎖して一網打尽にする姿勢を整えると、矢継ぎ早に諸注意を伝えました。
「一つ。ゑげれす船の退去期日前夜から各隊配備のこと。万に一つゑげれす船が居座るようなこともあるやも知れぬゆえ、兵糧なども十分に支度して配備に穴をあけぬように!」
【原文】一 諸手雑兵共に認めの仕様、前晩、明日一日の用意仕るべく候。若し逗留致す儀もこれあるべく候間、兵糧覚悟致し、夜々に明る一日宛の拵仕り置き然るべき事。
「一つ。味方の船印(ふなじるし)は角取紙(すみとりがみ)のみとし、手柄争いの必要はないため、各家の旗指物などは用いぬように」
【原文】一 船印角取紙迄にて銘々船並びに指物都合無用の事。
「一つ。ゑげれす船と接舷、あるいは乗り込んで白兵戦の可能性もあるため、たとえ雨が降っても戦闘の妨げとなる苫(とま。簡易的な屋根)は用いないように」
【原文】一 縦ひ雨降り候ても苫仕らざる事。
「一つ。船戦さの基本ではあるが、敵船にとりつくための鉤(かぎ)や雁爪(がんづめ)を用意しておくこと」
【原文】一 銘々船に相かぎ、がんづめ用意の事。
「一つ。鉄砲の打ち方始め、止めについては手信号の合図をもって行うため、勝手な判断で撃たないこと」
【原文】一 鉄砲相止め、何れも手振に申し付け候事。
「一つ。戦闘開始の合図は本隊(左京船)から大きな旗を振り立て、また法螺貝を立てる(鳴らす)。その時はすべての船(惣船)が錨綱(いかりづな)を切って船体を軽くして敵へ押しかかること。くれぐれも合図をするまでは勝手に船を動かさないように。また、石火矢を担当する船は例外とし、あくまで砲撃に専念せよ」
【原文】一 合図の事、左京船より大旗を振り立て並びに貝立つべく候。その節惣船綱を切り押し懸くべく候。右合図これなき内は曾て船を動かし申すまじき事、附石火矢荷船は惣船押し懸け候時分も動き申すまじき事。
「一つ。石火矢を放つ合図は、本体から鐘を鳴らすものとするため、聞こえ次第砲撃を開始するように」
【原文】一 石火矢放ち候儀、左京船より鐘を鳴らし次第放ち然るべき事。
「一つ。火矢の者は石火矢と同じく距離をとって待機し、石火矢の砲撃合図があってから、タイミングを見て射放つこと」
【原文】一 火矢の儀、石火矢船同然に召し置き、石火矢合図これありてより、見合次第火矢を放ち懸くべき事。
「一つ。ゑげれす船を乗っ取り、あるいは撃沈した際、こちらの船に余裕があれば、ゑげれす船を包囲、適宜拿捕すること」
【原文】一 ゑけれす船或は乗り取り、或は乗り沈め候節は、此方相残り候船の儀は、ゑけれす船を取り包み、次第不同に懸け置くべく候。
「なお、この神代左京に万が一のことがあった場合、残った諸将の内から適当な者が指揮を引き継ぐこと。あわせて、ただちに長崎奉行所と佐賀藩へ報告して指示を仰ぐこと(指示あるまで現場で戦闘を継続すべきことは言うまでもない)」
「首尾よく任務をまっとう出来た際は、拿捕したゑげれす船は長崎奉行所へ引き渡して帰投すること」
【原文】……左京無事に罷り居らざるに於ては、相残る船の内、頭立ち候人より、早速その場の次第御奉行所並びに佐嘉へ注進申すべく、若し左京別條無きに於ては、その節に至り申し付くべく、ゑけれす船の儀は御奉行所へ引き渡し候て、行儀よく深堀の様に罷り帰るべき事。
「一つ、ゑげれす船が大人しく退去に応じた際は、各隊持ち場を離れず、本隊の法螺貝を引き揚げ合図として、本隊・三番組(鍋島安芸守)・二番組(中野九郎兵衛)・一番組(鍋島志摩守)・五番組……の順でスムーズに帰投すること」
【原文】一 ゑけれす船何事なく、よく通り候時は、御上使より相附けられ候船帰り候上、諸手の船懸場を動かず左京船より貝を相立つべく候間、一番貝にて碇を取り、艪間にはまり罷り在り、二番貝にて左京船を押し出し、その次に鍋島安芸組家中、次に中野九郎兵衛船、鍋島志摩組家中、次に喜多島外記、土肥蔵人、石火矢船召し連れ、何れも罷り帰るべく候事。
「一つ。深堀に帰港したら、先を争わずに順序よく上陸すること。そして最後に、これらの段取りについて、西五太夫より船頭や水夫らへ示達しておくこと。以上!」
【原文】
一 深堀に於て船上りの儀、乗組所に段々行儀よく上り申すべき事。
一 船行儀の儀、西五太夫より船頭どもへ兼て申し付け置くべき事。
さぁ、ここまで準備想定しておけば大丈夫……と信じて、神代左京はじめ諸将はいざ有事に備えて長崎の守りを固めたのでした。
終わりに
……が、ゑげれす船は思いのほか大人しく退去。総数34艘の佐賀藩船団はちょっと拍子抜けしてしまったかも知れません。
しかし、いざ有事が起こってから慌てて守りを固めようとしても間に合いません。そもそも万全の備えを固めていたからこそ、ゑげれす船に対する抑止力になったとも考えられます。
この佐賀藩の見事な体制は諸藩からも高く評価され、筑後柳川藩(現:福岡県柳川市)の家老・十時摂津守(ととき せっつのかみ)は神代左京の陣中見舞いに訪れ、船行儀(艦隊運用)の周到さを褒美(ここでは賞賛の意)したそうです。
九三 延宝元年丑五月二十五日ゑけれす船三艘長崎入津、商売の訴訟仕り候へども相叶はず、帰帆仰せ付けられ候。右に付神代左京長崎差し越され、深堀相詰め、七月十六日大木勝右衛門、多久兵庫遣はし副へられ、聞番廣木八郎兵衛遣はさる。その後、鍋島志摩、同安芸、中野九郎兵衛、喜多島外記、土肥蔵人、志摩組より鉄砲物頭 深堀新左衛門、相浦源左衛門、深堀頼母、石井権之丞、堤六左衛門、石井十郎右衛門、西五太夫、石火矢役 原次郎兵衛、大家兵左衛門、平方利兵衛、伊東八右衛門、武富平兵衛、富永次右衛門、井原八郎左衛門、高木與左衛門、内田作右衛門、島内三兵衛、武富三之丞、大庭六右衛門、馬場新右衛門遣はされ候。多人数一同に参り候儀目に立ちよろしからざる由、左京殿より申し来り、あんだなどに乗り、追々に罷り越し候。左京殿初め海上に備へこれあるに付、手頭を以て備へ仕組あり。
※『葉隠』巻第五より
手頭
一 船懸場へ差し廻し候儀、ゑけれす船帰帆前の夜に、銘々の懸場に段々潜かに置くべき事。
一番 白崎に懸り候。鍋島志摩。
右乗組所 西浜北の先。
二番 神ノ島の前に懸り候。中野九郎兵衛一手の船。
右乗組所 同所志摩次。
三番 神ノ島前沖の方に懸り候。鍋島安芸一手の船。
右乗組所 中野九郎兵衛一手の次。
四番 博奕島と一ツ家との間に懸り候。左京一手の船並びに多久兵庫、大木勝右衛門、西五太夫船々。
右乗組所 大波留の前。
五番 高鉾台場の北に懸り候。喜多島外記、土肥蔵人、原次郎兵衛船々、石火矢船五艘。
右乗組所 マコメの下。
一 諸手雑兵共に認めの仕様、前晩、明日一日の用意仕るべく候。若し逗留致す儀もこれあるべく候間、兵糧覚悟致し、夜々に明る一日宛の拵仕り置き然るべき事。
一 船印角取紙迄にて銘々船並びに指物都合無用の事。
一 縦ひ雨降り候ても苫仕らざる事。
一 銘々船に相かぎ、がんづめ用意の事。
一 鉄砲相止め、何れも手振に申し付け候事。
一 合図の事、左京船より大旗を振り立て並びに貝立つべく候。その節惣船綱を切り押し懸くべく候。右合図これなき内は曾て船を動かし申すまじき事、附石火矢荷船は惣船押し懸け候時分も動き申すまじき事。
一 石火矢放ち候儀、左京船より鐘を鳴らし次第放ち然るべき事。
一 石火矢荷船を押し出し、追懸石火矢を放ち候儀停止たるべき事。
一 火矢の儀、石火矢船同然に召し置き、石火矢合図これありてより、見合次第火矢を放ち懸くべき事。
一 ゑけれす船或は乗り取り、或は乗り沈め候節は、此方相残り候船の儀は、ゑけれす船を取り包み、次第不同に懸け置くべく候。左京無事に罷り居らざるに於ては、相残る船の内、頭立ち候人より、早速その場の次第御奉行所並びに佐嘉へ注進申すべく、若し左京別條無きに於ては、その節に至り申し付くべく、ゑけれす船の儀は御奉行所へ引き渡し候て、行儀よく深堀の様に罷り帰るべき事。
一 ゑけれす船何事なく、よく通り候時は、御上使より相附けられ候船帰り候上、諸手の船懸場を動かず左京船より貝を相立つべく候間、一番貝にて碇を取り、艪間にはまり罷り在り、二番貝にて左京船を押し出し、その次に鍋島安芸組家中、次に中野九郎兵衛船、鍋島志摩組家中、次に喜多島外記、土肥蔵人、石火矢船召し連れ、何れも罷り帰るべく候事。
一 深堀に於て船上りの儀、乗組所に段々行儀よく上り申すべき事。
一 船行儀の儀、西五太夫より船頭どもへ兼て申し付け置くべき事。
七月十九日 神代左京
ゑけれす船異議に及ばず七月廿五日帰帆、左京殿初め廿七日深堀出足、同廿九日佐嘉著。
船数三十四艘
柳川の家老十時摂津守、左京殿船に見舞ひ、行儀褒美申され候なり。
戦国乱世も遠く過ぎ去りつつあった時代にあって、ゑげれす船の来航に対して万全の対処を見せたこの一件は、鍋島武士の面目を大いに果たしたと言えるでしょう。
※参考文献:
- 古川哲史ら校訂『葉隠 (中)』岩波文庫、1941年4月
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