酔いどれサムライ
本多忠真 ほんだ・ただざね
[波岡一喜] なみおか かずき松平家のために代々身を捧げてきた本多家の武将。叔父として忠勝に武芸を徹底的にたたき込み、最強武士に育てた。昼間から徳利を片手に酒を飲み、酔っているのか正気なのかわからないが、戦場ではスイッチが入ったように体が動く。
※NHK大河ドラマ「どうする家康」公式サイトより
典型的な「普段はだらしないけど、やるときはやる」キャラ・本多忠真。戦国時代でも屈指の豪傑・本多忠勝(演:山田裕貴)を育てただけあって、本人も相当な使い手でした。
今回はそんな本多忠真がどんな生涯を送ったのかを紹介。令和5年(2023年)大河ドラマ「どうする家康」の予習&復習にどうぞ。
忠勝を「戦国最強」に鍛え上げる
本多忠真の生年については諸説あり、嘉禄4年(1531年)か天文3年(1534年)に本多忠豊(ただとよ)の次男として誕生しました(便宜上、以下嘉禄4・1531年誕生説を前提に話を進めます)。
忠真が15歳となった天文14年(1545年)に父・忠豊が三河国安祥城(現:愛知県安城市)攻めで討死。4年後の天文18年(1549年)には兄の本多忠高(ただたか)も安祥城攻めで討死してしまいました。
この時わずかに19歳、既に元服していたとは言えまだまだ若輩者でしたが、これからは自分が本多家を引っ張っていかねばなりません。
兄の妻と子・鍋之助(なべのすけ)を引き取って養育し、こと鍋之助には文武両道を叩きこんだと言います。
「きっと父上を超える、いや、天下一の侍となるのだぞ!」
「はい!」
熱く激しい武者修行の末、元服した鍋之助は本多平八郎忠勝(へいはちろう ただかつ)と改名。永禄3年(1560年)に初陣を飾りました。
「ゆくぞ平八!」
「はい、叔父上!」
後に桶狭間の合戦と呼ばれる織田信長(演:岡田准一)との戦いで、鷲津砦に攻め込みます。これまで鍛え上げた槍を存分に奮って突き進む忠勝。
「危ない!」
血気に逸る忠勝は、織田方の山崎多十郎(やまさき たじゅうろう)に隙を衝かれて窮地に陥ります。
「覚g……っ!」
ここで間一髪、忠真の投げつけた槍が山崎に命中。忠勝は事なきを得ました。
「たわけ、武勇におごって油断するな!」
「申し訳ございませぬ!」
その後の合戦でも二人は助け合って数々の武勲を立て、忠真は肥後守の官途(私称)を許されます。忠勝も冷静沈着な武将に成長しました。
永禄6年(1563年)の三河一向一揆では主君・徳川家康(演:松本潤)に対する忠誠はみじんも揺るがず、忠勝と共に苦闘を潜り抜けました(当時、多くの者が忠義よりも信仰を選び、徳川家臣団の約半分が寝返ったと言います)。
三方ヶ原の合戦で壮絶な最期
そんな忠真の最期は元亀3年(1572年)12月。三方ヶ原の合戦で武田信玄(演:阿部寛)に敗れた際、味方を退却させるために殿軍(しんがり)を買って出たのです。
「叔父上 !」
「わしに構うな、そなたは菊丸(きくまる。忠真の嫡男)と共に御屋形様(家康)をお守りするのじゃ!」
一人残った忠真は両脇に旗指物を突き立て、「これよりは一歩も退がらぬ!死にたい者からかかって参れ!」と迫り来る武田の大軍に斬り込み、散華したのでした。享年43歳。
…(前略)…元亀三年十二月二十二日三方原の役に、吾軍利あらずしてすでに御馬をかへしたまふに及びて忠真後殿となり、反り撃ことしばしばにして従者等おほくうち死し、忠真もみづから鎗を執て敵兵六七人を殺すといへどもいよいよ逼り来るにより、鎗を捨刀をもつてまた三人を斬てすて、終に敵中に入て戦死す。法名慶花。三河国大樹寺に葬る。
※『寛政重脩諸家譜』巻第六百八十一 藤原氏(兼通流)本多より
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終わりに
以上、本多忠真の生涯を駆け足でたどってきました。なお菊丸は父の菩提を弔うために出家したと言います。もしかしたら元から身体が弱かったか、あるいはもう戦えないほど負傷してしまったのかも知れません。
「叔父上……!」
忠真の死を乗り越えて、本多忠勝は戦国最強(諸説あり)とも謳われた武勇を発揮することになります。その辺りは、また改めて。
果たして波岡一喜さんの演じる本多忠真は、どんなアレンジを魅せてくれるのでしょうか。忠勝と育む師弟の絆エピソードなど、今から楽しみですね!
※参考文献:
- 伊藤賀一 監修『家康の戦略を支えた最強徳川家臣団のすべて』宝島社、2022年11月
- 野中信二『徳川家康と三河家臣団』学陽書房、2022年12月16日
- 『徳川四天王 精強家康軍団奮闘譜』学研プラス、1991年1月
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