「一身上の都合により、退職させていただきます」
本当は色々言いたいことがあったとしても、大抵の方は「立つ鳥跡を濁さず」と何も言わずに職場を去ることでしょう。
しかし、何の不満もないのであればずっとその職場にいるはずですし、何の不満もない退職者というのはほとんどいません。
どうせ辞めるのだから「最後に不満のありったけをぶちまけてやろうか」そんなことを思ったのは、きっと筆者だけではない筈です。
今回は江戸時代、主君の元を去る前に不満の限りをぶちまけた堀主水(ほり もんど)のエピソード「会津騒動(あいづそうどう)」を紹介。
一体何があったのでしょうか?
暗君に諫言する戦国古武士
時は寛永8年(1631年)、会津40万石の藩主・加藤嘉明(かとう よしあき)が亡くなりました。
嘉明はかつて「賤ヶ岳七本槍」の一人として活躍した勇将でしたが、その跡を継いだ加藤明成(あきなり)は暗愚で藩政を傾けてしまいます。
然るに明成は闇将にて、武備を守らず、唯金銀珍器を好み、臣庶国民の困窮を顧みず、諸人の肉を削りても金銀となし、集めんことを悦ぶ。其金銀を集むるに、皆一分にして取集む。時の人、是を加藤一分殿と称す。式部一分音相近き故爾いふか。是故に金銀財宝蔵に充満す。私欲日々に長じ、家人の知行、民の年貢にも利息を掛けて取り、商人職人にも非道の運上を割付け取りける故、家士の口論、商工の公事喧嘩止むことなし。
※『古今武家盛衰記』巻第十六より
「諸人の肉を削りても金銀となし」「家人の知行、民の年貢にも利息を掛けて取り」……すさまじい守銭奴ぶりですね。
同じカネでも一分(いちぶ)金・銀を好んだらしく、わざわざその形に鋳直させたことから、官職の式部(しきぶ)少輔をもじって加藤一分殿と陰口されていました。
それにしても税金の滞納に延滞金を加算するのは現代でもありますが、家臣に与えた領地(家人の知行)を資産の貸付とみなして利息をとるのは、流石にやり過ぎではないでしょうか。
当然ながら老臣たちはたびたび諫言するも、聞く耳をもってくれません。そんな一人に嘉明時代からの生き残りである堀主水がいました。
元々は多賀井(たがい)の苗字を名乗っていた彼は、豊臣家を滅ぼした慶長20年(1615年)大坂の陣で敵と組み合った末にお堀へ転落。
水中格闘を制して首級を上げた武功を伝えるため、嘉明から堀の苗字を与えられた歴戦の勇士です。
武士がサラリーマン化しつつあった徳川の世。それでもなお戦国乱世の気風を残す主水は、どれほど不興を買っても恐れることなく諫言しました。
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白昼堂々城下を去り、鉄砲をぶっ放す
……が、そんな声に耳を傾ける明成ではありません。両者の確執が深まる中、互いの家臣が喧嘩を起こします。
本来ならば喧嘩両成敗であるところ、明成は自分の家臣を贔屓して主水の家臣だけを一方的に処罰。
また主水も監督不行き届きの連帯責任で蟄居を命じ、これに不服を唱えた主水を家老職から罷免したのでした。
「かくまで理不尽なる仕打ち、もはや我慢ならぬ!」
時に寛永18年(1641年)4月3日(※)、主水は舎弟の多賀井又八郎(またはちろう)や真鍋小兵衛(まなべ こへゑ)ら一族郎党300余名を引き連れ、白昼堂々と若松城下を退去します。
(※)この日付は『古今武家盛衰記』より。『藩翰譜』第七下「加藤」ではこれを寛永16年(1639年)4月16日と記述。
「このまま去っては腹の虫が収まらぬ。最後に一つ、ぶっ放してくれるわ!」
主水は城下から少し離れた中野というところで、城へ向けて鉄砲の一斉射撃。流石に被弾させてはまずいと思ったのでしょうが、明らかに指弾の意思を示したのでした。
寛永十六年四月十六日寅の刻ばかりに、若松の城を出て、中野といふ所にして、鉄炮を放ち、辰の時ばかりに、倉兼川に至り、往来の橋を焼断ちて去りぬ。
※『藩翰譜』第七下「加藤」より
すっかり面子を潰された明成はこの暴挙に激怒。会津若松から鎌倉を経て高野山へと去った主水たちを徹底的に追及、ついにはことごとく処刑したのでした。
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終わりに・淘汰されていく古武士たち
自分に逆らった堀主水ら一族を粛清してスッキリした明成でしたが、それで領国経営の問題が解決したわけではありません。
もはや自分の手に負えないと思ったのか、寛永20年(1643年)4月に明成は徳川将軍家に対して所領返上を申し出たところ、翌5月に認められました。
しかし父・嘉明の功績を無にするのも忍びない幕府は、石見国吉永(現:島根県大田市)に1万石を与えて御家再興を許します。
これを受け継いだ加藤明友(あきとも。明成の子)は、父の失政を教訓に殖産興業など善政に励んで財政再建を果たしました。
ちなみに会津へは真面目で優秀な保科正之(ほしな まさゆき)が着任、代々徳川家に忠義を尽くし、幕末に至ります。
話を戻して……家臣の忠義は、それに値する主君の態度あってこそ。かつて戦国時代は、そんなある種の不文律によって関係が支えられていました。
しかし江戸時代に入ると主君に対する絶対の忠誠が求められ、乱世の遺風を残す者たちは次々と淘汰されてしまいます。
滅びゆく戦国古武士の意地を示した堀主水のエピソードには、一抹の寂しさが感じられてなりません。
※参考文献:
- 黒川真道 編『古今武家盛衰記』国史研究会、1914年7月
- 新井白石『藩翰譜』吉川半七、1894年11月
こちらの書籍↓は会津騒動がモデルとなっています。
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