戦国時代を代表する義将として有名な上杉謙信(うえすぎ けんしん)ですが、その義理堅さを象徴するエピソードの一つに「敵に塩を送る」というものがありますね。
経済的に相手を弱らせるなど姑息(間接的)な手段ではなく、真正面から堂々と戦って勝負を決したい謙信らしさが表れていますが、そう言えばどんなストーリーだったのでしょうか。
今回はざっくりとしたおさらいと、本当に謙信が善意だけで塩を送ったのか(そもそも塩を送った史実があるのか)、見ていきたいと思います。
名声と実利の両取り?まさに「三方よし」のビジネスチャンス
信玄の国は海を距ること遠き山国であって、塩の供給をば東海道の北条氏に仰いだ。北条氏は信玄と公然戦闘を交えていたのではないが、彼を弱める目的をもってこの必需品の交易を禁じた。謙信は信玄の窮状を聞き、書を寄せて曰く、聞く北条氏、公を困むるに塩をもってすと、これ極めて卑劣なる行為なり、我の公と争うところは、弓箭にありて米塩にあらず、今より以後塩を我が国に取れ、多寡ただ命のままなり、と。
※新渡戸稲造『武士道』より
【意訳】武田信玄(たけだ しんげん)公の治める甲斐国(現:山梨県)は海から遠く離れた内陸部で、塩の供給を海に接した相模国(現:神奈川県)の北条(ほうじょう)氏に依存していた。
北条氏は間接的に武田家を弱体化させるべく、塩の交易を禁止したので、信玄公は困ってしまった。
これを聞いた謙信は「何と卑劣な振る舞いだ。わしが貴公と戦っているのは弓矢=武力で決着をつけたいためであり、飢え死にさせても勝ちとは言えない。今後は我が越後国(現:新潟県)より必要なだけ塩を買うがよい」と書状を送ったそうな。
……との事で、謙信さすがカッコいい!とは思うものの、別に塩を寄付した訳ではなく、普通に売った(塩の交易を禁止しなかった)だけに過ぎません。
もちろんそれでも信玄公とすれば大助かりだったでしょうが、越後の商人たちにしてみれば又とないビジネスチャンス。
青天井とまでは行かなくても、たっぷりと利益を上乗せした言い値で塩が売れるのですから、笑いが止まらなかったことでしょう。
「いいんですよ?高すぎるとお思いなら、よそで買っていただいても……」
「くっ(他に買えるところがないから、足元を見おって)……」
もちろん、あまりやり過ぎると謙信から叱られてしまうでしょうが、主君は義将として名声を高めながら、商人たちも実利をとって大儲け。そして信玄公も助かるには助かるのですから、まさに売り手良し、買い手良し、世間良しの「三方良し」でした。
史実性はともかくとして……
なお、これらのエピソードが紹介されたのは江戸時代前期に出版された『謙信公御年譜(けんしんこうごねんぷ。元禄9・1696年)』が初出とされ、同文献は脚色が多く、史実性については話半分程度に受け止めるのがよさそうです。
これを江戸時代後期の頼山陽(らい さんよう)が著書『日本外史(にほんがいし。文政10・1827年)』で紹介したことにより、謙信公の美談として全国に広がったのでした。
ともあれ信玄公が駿河国(現:静岡県東部)を併呑して「海に出る」と、(仮に塩の交易が事実だったとして)越後の塩も適正価格に落ち着いていったでしょう。
それでも謙信に対する信頼は揺るがなかったようで、信玄公は臨終に際して「何かあったら、上杉を頼れ。謙信は困った者を見捨てるまいから(要約)」と言い残しています。
果たして信玄公が亡くなり、その訃報に接した謙信は食事の箸を取り落とし
「吾れ好敵手を失へり、世に復たこれほどの英雄男子あらんや」
※頼山陽『日本外史』より
と慟哭したそうです。
生涯の大半をかけ、何度も死闘を繰り広げた両雄。戦国乱世でなければ、心腹の友となれたかも知れないのに……あるいは、戦うことでしか解り合えない、そんな二人だったのかも知れませんね。
※参考文献:
- 新渡戸稲造『武士道』岩波文庫、1938年10月
- 頼山陽『日本外史 (中)』岩波文庫、1977年5月
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