「カエルの子はカエル」じゃありませんが、親に相応の社会的地位があると、子供もそれなりに出世するもの……例えば「2世議員」とか「2代目社長」などと言いますね。
親心としてみれば、継ぐにせよイチから志すにせよ、自分と同じ職業を選んでくれるのはとても嬉しいもの。その一方で、必ずしもその任に堪える能力まで受け継いでいるとは限りません。
それは平安時代の貴族たちも同じだったようで、仕える部下たちや統治される領民としてはたまったものではありません。
しかし当局としても手をこまねいてばかりではなく、何とかリストラできないものか、その機会を虎視眈々と狙っていたようです。
今回はそんな困った貴族たちと、彼らを一網打尽?にリストラするキッカケとなった「伊予親王の変」を紹介したいと思います。
いわれなき罪を着せられ……伊予親王の悲劇
時は大同2年(807年)10月、第51代・平城天皇(へいぜいてんのう)の異母弟である伊予親王(いよしんのう)が謀叛を企んでいるというデマ(※)が流されました。
(※)藤原宗成(ふじわらの むねなり)が親王に対して謀叛を唆し、そんなつもりのない親王は正直にそのことを告白。しかし逮捕された宗成が取り調べに際して「親王こそが首謀者である」などと供述したのです。
「義兄う……いえ陛下、誤解にございまする!」
「うるさい黙れ!せっかく重用してやったのに裏切りおって!」
怒髪冠を衝かんばかりの平城天皇は、親王の言葉も諫める者の言葉もいっさい聞く耳を持ってくれず、母親の藤原吉子(ふじわらの きつし)ともども幽閉してしまいました。
「食事も水も一切やらず、餓死させよ!」
このまま飢えと渇きに苦しみ悶えて死ぬくらいなら……そう絶望した親王は、母と共に服毒自殺してしまいました。
「よし、謀叛を共謀・加担していた者たちに連帯責任をとらせるのだ!」
平城天皇は伊予親王の子供たちを片っ端から流罪にし(自白しなかったため、拷問中に1名死亡)、母方の藤原一族についても厳罰に処します。
そのドサクサに紛れて日ごろ能力や素行に難のある者も左遷・罷免などしましたが、例えばこんな者たちがいました。
やんごとなき困った人たち
藤原友人(ふじわらの ともひと。事件当時41歳)
器量が狭い上に無礼な振る舞いが多く、空を飛びたくて仙術修行にハマるという変わり者。現代なら個性豊かな面白い友人になれそうですが、人の上に立つは資質に欠けていました。
藤原乙叡(ふじわらの たかとし。事件当時47歳)
頑固で驕り高ぶるところがあり、妾たちをはべらせて豪遊三昧に耽ったと言います。
また平城天皇の皇太子時代に酒宴の席で吐いてしまい、お気に入りの装束を汚すという粗相をした過去があり、以来ずっと恨まれていたそうです。
橘永継(たちばなの ながつぐ。事件当時39歳)
『日本後紀』には「……雖無才芸、心存□□(才、芸無しといえども、心に□□あり)……」とあり、何かしらを心がけるそれなりの努力家ではあったようです。しかしいかんせんスキルもセンスもなかったそうで、周囲の者たちはさぞや苦労させられたと思われます。
誰だか「勤勉な無能者ほど、組織にとって害悪はない」などと言っていましたが、まさにその典型でしょう。
橘百枝(たちばなの ももえ。事件当時33歳)
女性みたいな名前ですが、男性です。文書が理解できなかったそうで、事務処理は周囲の者に任せていたのでしょう。
鷹狩りなどの狩猟や漁労を好んでいましたが、あまりに殺生をしすぎて怖くなったのか、出家して生臭物を絶ちました。
そのお陰か長命を保ったそうですが、文書が読めないのでは仕事にならず、周囲の者たちの苦労が偲ばれます。
終わりに
……ただし、これらの多くは平城天皇が「薬子の変(くすこのへん。大同5・810年)」によって失脚・出家する前後に赦免されています。
伊予親王が無実であった(※)ことはもちろん、彼らのバックにいる一族からの圧力もあったようです。
(※)後に淳和天皇、仁明天皇によって名誉が回復されています。
伊予親王の変がとんでもないとばっちりだったことは間違いないものの、当時の部下や領民たちは、彼らにもう少しスキルと意欲を高めて欲しいと思っていたことでしょう。
※参考文献:
- 北山茂夫『日本の歴史4 平安京』中公文庫、2004年8月
- 森田悌『日本後紀 全現代語訳』講談社学術文庫、2006年11月
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