NHK大河ドラマ「鎌倉殿の13人」、皆さんも観ていますか?
三浦義村(演:山本耕史)の弟として登場した三浦胤義(演:岸田タツヤ)。権謀術数を得意とする兄とは対照的に実直な性格ですが、それが災いして朝廷に賛同。やがて承久の乱(承久3・1221年)では鎌倉や兄と敵対して激しい戦いを繰り広げることになります。
ところで、三浦兄弟は義村と胤義だけではありません。今回は各家の系図をまとめた『系図纂要』などより三浦義村&胤義の兄弟姉妹を一挙紹介。
それぞれ、どのような生涯をたどったのでしょうか。
三浦有綱(みうら ありつな)
生没年不詳
別名:山口二郎、有継(誤記か)
官職:兵衛尉
相模国三浦郡山口(現:神奈川県三浦郡葉山町)を治めたため山口の苗字を称しました。その館は現在の大昌寺(同町)にあったと言われます。
建久6年(1195年)3月9日の東大寺大仏供養に供奉するなど、源頼朝(演:大泉洋)の代から仕えました。
また建仁2年(1202年)10月29日、源頼家(演:金子大地)の命によって蹴鞠場をセッティングした時のこと。
北条時房(演:瀬戸康史)・和田義盛(演:横田栄司)・義村そして有綱がコートに立てる松の木を用意したところ、有綱の松について蹴鞠師範の紀行景(きの ゆきかげ)がダメ出しをしました。
「何だと!兄上らの松とどこがどう違うんだ!まったく、都から来た人間ってのは陰湿だなオイ!」
大層な剣幕で凄まれて、行景はしぶしぶそのまま松を植えたということです。
やがてフェイドアウトする有綱はその後に相次ぐ戦乱の従軍記録がないことから、間もなく亡くなったと考えられます。
三浦重澄(みうら しげずみ)
生年不詳~宝治元年(1247年)6月5日没
別名:太郎、大川戸重澄、河戸重隆
官職:大隅守
大川戸は現代の埼玉県北葛飾郡松伏町の字名。この一帯に広がる大川戸御厨(みくりや。伊勢の神宮へ作物を貢納する代わり、国司への年貢を免除された)を治めた大川戸太郎広行(おおかわど たろうひろゆき。義村の婿)の家督を継いだものと考えられます。
『吾妻鏡』では源頼家の狩りにお供などしており、弓の達者が多い三浦一族の名に恥じぬ腕前を持っていたことでしょう。
第5代鎌倉殿・藤原頼嗣(ふじわらの よりつぐ)まで仕えますが、宝治元年(1247年)6月5日に勃発した宝治合戦により、甥の三浦泰村(やすむら。義村の嫡男で三浦一族の棟梁)ともども討死して果てました。
なお、息子の三浦太郎左衛門尉重村(たろうざゑもんのじょう しげむら)・三浦次郎家康(じろういえやす)も同じく討死しています。
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三浦胤義(みうら たねよし)
生年不詳(文治元・1185年ごろ?)生~承久3年(1221年)6月15日没
別名:平九郎、九郎判官
官職:右衛門尉
『系図纂要』では源頼朝の猶子(ゆうし。相続権のない養子的な存在)となっており、たいそう可愛がられたようです。
初陣は元久2年(1205年)6月22日、畠山重忠の乱。後に建暦3年(1213年)5月2~3日の和田合戦に先立ち、兄の義村ともども和田義盛に加勢する旨の起請文まで書いておきながら、あっさりこれを裏切ります。
結果として和田一族は滅亡、人々からは「三浦の犬は友をも食らう(親族すら裏切る)」と批判されました。
やがて上洛して検非違使となり、後鳥羽上皇(演:尾上松也)の側近である藤原秀康(ふじわらの ひでやす)に唆されて反鎌倉の急先鋒に。
その理由は「自分の妻が源頼家の未亡人で、その子・一幡(演:相澤壮太)も義時に殺された仇をとってやりたい」
で、肝心の勝算はと言えば「兄・義村はチョロい(※)から、『日本国惣追捕使≒鎌倉殿にしてやる』と言えば一発で味方しますよ。まして義時を朝敵認定すれば、味方する物好きなんて千人もいないでしょうね(※『承久記』より)」と超がつくほど楽観的な見通し。
(※)原文では「嗚呼(おこ)の者」。現代でも烏滸がましいなどと言うように、身分不相応な野心家・強欲を言います。
しかし兄はそこまでアホではなく、また坂東武者たちも鎌倉方についたため胤義らは敗北。西山木島(現:京都市右京区。木嶋坐天照御魂神社)で自刃して果てたのでした。
三浦友澄(ともずみ)
生年不詳~承久3年(1221年)没
別名:三戸友澄
官職:不明(特になし?)
通称は十郎。三戸の地(現:神奈川県三浦市)を治めたため、三戸友澄と称しました。
承久の乱では胤義と共に朝廷に味方して、討死したと伝えられています(ただし胤義と同時か、それ以前の戦闘かは不明)。
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妹たち4人(実名不詳)
ほか義村たちには姉妹がおり、それぞれ安西三郎景益(演:猪野学)・天野和泉守政景(あまの いずみのかみまさかげ)・千葉上総介秀胤(ちば かずさのすけひでたね)・そして前述の大川戸太郎広行に嫁ぎます。
千葉秀胤に嫁いだ姉妹は四人の息子(千葉時秀・千葉政秀・千葉泰秀・千葉景秀)がいました。しかし前の宝治合戦(宝治元・1247年6月5日)で三浦泰村に与していたため北条氏による追討を受け、6月7日にことごとく殺されてしまいました。
終わりに
以上、三浦義村・胤義の兄弟姉妹たちを紹介してきましたが、おそらくNHK大河ドラマ「鎌倉殿の13人」には登場する機会はないでしょう。
それでも三浦一族がわっと集まった時に「あの御家人が有綱かな」「この武士は友澄かもな」などと思いを馳せつつ鑑賞すると、より味わい深く楽しめておすすめです。
※参考文献:
- 髙橋秀樹『三浦一族の研究』吉川弘文館、2016年5月
- 安田元久 編『鎌倉・室町人名事典』新人物往来社、1990年9月
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