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源頼朝の隠し子?鎌倉御家人・大友能直とは何者か

平安時代
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鎌倉幕府の初代将軍として知られ、武士の世を切り拓いた源頼朝。

大の女好きとしても知られており、亀の前事件をはじめ数々の女性を泣かせたり正室の北条政子を怒らせたりしたそうです。

そんな頼朝には隠し子の噂も絶えず、有力武士の中にも何人か候補者?がいました。

今回は頼朝の隠し子説がある大友能直(おおともの よしなお/よしただ)を紹介したいと思います。

果たして彼はどんな人物で、どんな生涯をたどったのでしょうか。

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大友能直の生い立ち

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大友能直は承安2年(1172年)1月3日、相模国愛甲郡古庄(ふるしょう。神奈川県厚木市)で郷司を務める近藤能成(よししげ)と利根局(とねのつぼね)の間に誕生しました。

母の利根局は相模国足柄上郡大友郷(おおとも。神奈川県小田原市)を領する波多野経家(はたの つねいえ)の養女です(実父は大橋貞能)。

大友郷は頼朝が配流されていた伊豆国蛭島(ひるがしま。静岡県伊豆の国市)からそう遠くありません。

女好きな頼朝が波多野家へ忍び込み、ちゃっかり仕込んでしまった可能性も考えられます。

実際そこまで近くはないものの、頼朝なら女を求めてやりかねないでしょう。

ちなみに局とは居住区画のこと。どこかへ女房として出仕しており、大部屋ではなく個室を与えられる中級以上の女房を指します。

彼女がどこへ出仕していたのか、また利根という女房名(本名に代えて呼ぶビジネスネーム)が何に由来するのか(利根川?)、興味深いですね。

なお幼名などは不明。便宜上、大友能直で統一します。

近習として頼朝の寵愛を受ける

楊洲周延 「曽我兄弟夜討ノ図」

大友能直は17歳となった文治4年(1188年)に元服。はじめは故郷の地名から古庄能直と名乗りました。

※のち近藤能直、父・能成の死後は中原親能(十三人宿老の一)の猶子となって中原能直、大友郷を継承後は大友能直と称しています。

同年10月14日に頼朝の推挙を受けて左近将監(さこんのしょうげん)に任官しました。

病床にあった能直は、回復した同年12月17日に初めて出仕して頼朝に礼を述べています。

かくして能直は頼朝の近習となり、無双の寵仁(並びない寵愛)を受けました。

文治5年(1189年)には奥州征伐(藤原泰衡追討)へ従軍、建久4年(1193年)の曾我兄弟襲撃に際しては、能直が身体を張って頼朝の身辺を護ります。

九州北部に勢力を伸ばす

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忠勇が評価され、能直は建久7年(1196年)1月11日付で豊前守・豊後守に任官。

合わせて鎮西奉行を兼任し、現地へ赴きました。これが戦国大名・大友氏のルーツとなります。

承元元年(1207年)ごろには筑後守を兼任するも、当人は京都と鎌倉をしきりに往復していたことから、現地には守護代を置いていたのでしょう。

建暦3年(1213年)の和田合戦に際しては京都・六波羅に滞在して有事に備えています。

そして貞応2年(1223年)11月27日に所領と官職を妻子に譲り、52歳で世を去ったのでした。

頼朝の隠し子説は本当か?

今回は大友能直の生涯を駆け足でたどってきましたが、頼朝の隠し子説は本当なのでしょうか。

母親の利根局が頼朝の妾であったという伝承から、大友氏の系図では能直を頼朝の庶子としています。

しかしこれらの主張には根拠が乏しく、能直ら大友氏は藤原秀郷の子孫とされているため、憶測(あるいは希望的観測)の域を出ません。

なお時代が下り、足利尊氏が大友氏第7代・大友氏泰(うじやす)ら幼い兄弟を自分の猶子に迎えています。

これが頼朝と能直の親子関係をイメージさせ、伝承の元になったのかも知れませんね。

終わりに

大友宗麟(画像:Wikipedia)

能直の死後も大友氏は豊後国を中心に勢力を固め、後に戦国大名・大友宗麟(そうりん。大友義鎮)を輩出します。

果たして大友氏は頼朝の落胤なのか、あるいは藤原秀郷の子孫なのか、皆さんはどっちだと思いますか?

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